カラスの地下図書館

色んな視点から独ソ戦を解説するブログです

ソ連の政治将校


 社会主義の軍隊には政治将校なる存在がいます。創作物や歴史書で語られるイメージの多くは、戦場の現実を理解せずに理想論ばかり唱えて指揮官を困惑させ、最前線では兵士を鼓舞して死地へと向かわせる、思想に取り憑かれた崇拝者としての役割が強いのでしょう。

 さて本稿では、ソ連の政治将校を取り上げて、彼らが国にとって軍隊にとってどのような存在だったのかを説明していきましょう。政治将校がいるということはどのようなデメリットがあり、メリットがあったのか。そしてこの解説を通して当時のソ連軍の実感について理解を深めていただければ幸いです。

 

 

政治将校という単語

 歴史的背景に至る前に、まずは混沌とした政治将校という単語について整理しておきます。ここでいう「政治将校」とは、軍隊の中にあって共産党の意向を反映するために送られた人間のことを指します。その呼称も一様ではなく、「コミッサール(政治委員)」と呼ばれたり、「ポリトルーク(政治指導者)」「ザムポリト(政治担当補佐官)」など変化に富んでいます。*1 これは主に役割の変化を反映していると言えます。平時における活動のほとんどが、兵士への政治教育や宣伝活動など政治活動が占めています。一方、戦時においては部隊の指揮権を持っていたりいなかったりと時代によってまちまちです。特にソ連前半期において、政治将校に部隊の指揮権を握らせるのかは大きな論争を呼びました。それゆえ名称もその時の役割において変化しているのです。 

 平時における活動を見ていると、政治将校の役割はアメリカ軍の「従軍牧師」に近いものがあります。宗教を否定した社会主義国で、代わりに「思想」を精神的支柱の拠り所として教育を行い兵士のカウンセリングにもあたる彼らの姿はどこか宗教人を彷彿とさせる……と言えば言い過ぎでしょうか?

 あらかた政治将校の説明をしたところで、いよいよ歴史に入っていきましょう。

 

はじまりはケレンスキー

 

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臨時政府首相 ケレンスキー

1917年、ペトログラードの冬。

 ロシア帝国第一次世界大戦の真っ只中にありましたが、最前線では敗北が続き、国内では食糧配給が滞り厭戦気分が広がっていました。首都では民衆のストライキが頻発するようになり、戦争どころではなくなります。事態が急転するのは、ストライキの鎮圧を命じられていた兵士たちが逆に自分たちの上官に銃口を向け、明確な反逆の意志を示したことです。軍隊という後ろ盾を失った皇帝は、そのままドゥーマ(議会)に権力を譲り渡して、退位しました。これが二月革命の始まりです。

 ドゥーマの構成員はそのまま臨時政府を組織します。ケレンスキー首相は、配下に置いた軍隊を管理するためにコミッサールを各地域に派遣しました。県・郡・市ごとに送られたコミッサールは、臨時政府の地方支配を担保します。革命直後の軍隊では、兵士たちの反乱によって将校が処刑され、「兵士委員会」なるものが選出されて指揮権を将校から奪っていました。将校に対する敬礼も勤務外では廃されます。これらの措置は、当時まだ政権を握っていなかったソヴィエト委員会が発行した「命令第1号」なる文書に基づくものであり、ソヴィエトはこれによって兵士たちの信頼を獲得します。コミッサールの役割は、何より革命を左右する「軍隊」を臨時政府の手中に留めておくことでした。

 

ソヴィエトの下で

 

 しかし軍隊内部からはコルニーロフのように反逆する者も現れ、兵士たちもソヴィエト委員会に取り込まれていくなどコミッサールは上手く機能しませんでした。それに並行して臨時政府も様々な改革を打ち立てたものの、民衆が本当に望んでいた「戦争からの離脱」を果たすことができず、十月革命にて政権をボリシェヴィキに奪われてしまいます。

 ソヴィエト政府はまず軍隊を引き継ぐにあたって、武装した労働者の集まりである「赤衛軍」にコミッサール制を導入して、旧軍を吸収させます。そして彼らは労働組合・工場党委員会・赤衛軍の代表を集めて「革命軍事委員会」を結成しました。この委員会は、60名以上の熱心な革命家をコミッサールとして部隊に派遣することを決定。またコミッサールには、部隊の指揮官が出す全ての進撃命令に副署権、つまり党の許可を与える権利が与えられました。この副署権は前線におけるコミッサールの権力の源となり、コミッサールを指揮官と並び立つ存在へと仕立て上げたものです。とはいえ、この時点で党が彼らに期待するものは小さく、あくまでも部隊指揮官に対する牽制としての対策でした。 

 状況が一変するのは、この赤軍(1918年1月に「労農赤軍」に改変)が実戦に出てからです。1918年、ソヴィエト政府はドイツとの講和を模索し続けていました。しかし相手方から提示された条件が苛烈過ぎたために、党内部からは戦争継続の声が大きく、外務人民委員レフ・トロツキーは折衷案として「戦争もせず、講和もせず」と煮え切らない態度を取ります。これに業を煮やしたドイツ軍は、二月に東部戦線全域で大攻勢を開始します。赤軍は各地で敗走し、一時は首都ペトログラードにまで接近したドイツ軍のために、ソヴィエト政府はモスクワに遷都せざるを得なくなります。追い詰められたソヴィエト政府は、さらに吊り上げられた条件を前に講和条約を結ばされ第一次世界大戦から離脱しました。

 

トロツキーの改革

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赤軍の父」トロツキー


 

 かくしてソヴィエト政府は自らが保有する軍隊は貧弱であること、そして外部からの圧力に対して新しい国家があまりに脆いことを痛感しました。目下の課題は強い軍隊の創設でした。講和条約締結のすぐ後に「最高軍事会議」が置かれ、その初代議長にトロツキーが就任、3月には陸海軍人民委員に任命されました。赤軍創設の役回りはトロツキーに回ってきたのです。すでに同月、ロシアの戦線復帰とソヴィエト政府打倒を目論むイギリス・フランス軍がムルマンスクに上陸し、翌月には極東の利権を狙う日本軍がシベリアに出兵していました。

 革命後にソヴィエト政府で蔓延した「ブルジョワ性」を否定するあまり、軍隊にまで社会主義的を求めようとする風潮をまずトロツキーは批判し、西欧的な軍隊の建設を訴えます。まず彼は赤軍に徴兵制を導入し、広く兵士を集めます。多くの革命家が期待した「自発的な労働戦士」としての志願兵の数は、正規軍を編成するにあたって絶対的な数が足りなかったためです。

 そこで適齢期の男性を調査して徴兵し、訓練する作業にはコミッサールがあたりました。トロツキーは全国的に軍事委員会を設置し、赤軍宣伝志願兵の受付・兵士の教育などの雑務をコミッサールたちに任せました。*2 加えて、政治教育を施し士気と識字率の向上に努めた下級の政治将校たちのことをポリトルークと呼び、コミッサールの執行を下から支えていました。また群・地方単位に置かれた委員会は全て彼の陸海軍人民委員部の統括のもとに置かれました。

 これは当時、地方分権化を勝手に進めていた地方勢力やその軍隊に対する牽制でもありました。正規軍の道のりには、中央の指導に忠実な軍隊を作り上げていく必要があります。そのため5月には全ロシア参謀本部が創設され、赤軍の中枢へとなっていきました。 コミッサールはバラバラな赤軍を一つに繋ぎ止める役割をも有していたのです。

 さて、膨張していく赤軍には規律・技術を与える必要があります。それを行うためには将校たちの存在が不可欠でしたが、共産党の側にいるのは兵士や下士官ばかりで、将校などいるわけがありません。これに対策するために陸軍大学を作って即席の将校を育成し、下士官たちを将校クラスに格上げするなど様々な努力がなされましたが、必要数にはとうてい及びません。そこでトロツキーは旧ロシア軍の将校に向き合いました。

 旧体制下において彼らは特権階級であり、その多くは社会主義思想に共鳴しませんでした。しかしトロツキーは彼らを「軍事専門家」として雇い入れ、1920年までに五万人ちかい旧将校たちが赤軍で活躍することになります。もちろんこの決定は党内でも大きな批判を呼び起こし、その中にはスターリンの顔もありました。しかし彼は「軍事を知らない無能な指揮官によってもたらされる損害の方が、軍事専門家たちの裏切りよりもひどい」と力説し、反対意見をねじ伏せてしまいます。

 「軍事専門家」たちはソヴィエト政権に協力する代わりに、革命以前の優遇された生活が保障されました。一方で反逆行為の責任は本人だけでなく、その家族にまで及びます。そして部隊の中で彼らの反革命行為を監視したのが、コミッサールです。彼らはソヴィエト政府の代理として不可侵の権利を有しており、軍事専門家の白軍・干渉軍への寝返りに対して睨みをきかせていました。ただ、コミッサールの権利が不可侵であったのと同様に、戦闘における軍事専門家の決断も不可侵でした。トロツキー反革命を取り締まること以外に、コミッサールの軍事への介入を厳禁しました。また内戦が始まると、コミッサールは指揮官とともに失敗の責任(処刑までも)を取らされるようになります。監視者としてのイメージとは裏腹に、軍事専門家とコミッサールの両者は一蓮托生の運命にあり、それゆえ協力しあわなければならなかったのです。

 むろん、お題目だけ唱えても実戦におけるコミッサールと軍事専門家の対立は激しいものでした。特に有名なのが、1918年、ツァリーツィン(現ヴォルゴグラード独ソ戦時の名はスターリングラード)の事件です。

 この事件の概要はこうです。トロツキーの進める赤軍の中央集権化に反対していた現地軍司令官クリメント・ヴォロシーロフは、中央から派遣されてきた軍事専門家の命令を拒絶します。その背後にはスターリンの影響があり、事実上スターリントロツキーの対立でした。結局、トロツキーはヴォロシーロフを軍規違反で軍法会議への出廷をちらつかせて黙らせます。また背後にいるスターリントロツキーの方針を受け入れざるをえなくなりました。レーニンまで介入せざるをえなかったこの事件は、軍事専門家に対する共産党員の不信を如実に示しており、これらをまとめあげるトロツキーの采配なしにはコミッサール制は成り立たなかったのかもしれません。

 

<<追記>> 2020/10/17

参考文献 

 池田喜郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波文庫

 川島弘三『社会主義の軍隊』講談社現代新書

 湯浅赳男『革命の軍隊 赤軍史への一視点』三一新書

 レフ・トロツキー『革命はいかに武装されたか : 赤軍建設の記録Ⅰ < 第二期トロツキー選集 10 >』現代思潮社

 『歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ バルバロッサ作戦』学研プラス

*1:特にこのコミッサールという単語が曲者で、辞書を調べると①(軍)政治委員 ②軍事委員, 徴兵司令官 ③政治将校 などという訳語が出てきます。その他にもソ連時代の大臣にあたる言葉もコミッサールで通っていたりと、当時よく用いられた役職名であることが伺えます。なお本稿では政治委員も軍事委員も全て、軍隊における共産党の「手先」という意味で政治将校として呼称します。

*2:特に内戦時に徴兵の役割をになったコミッサールのことを、ヴォエンコム(戦時委員)と呼びました