レーニンの部屋

色んな視点から独ソ戦を見るブログです

ブジョンヌイとアコーディオン

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演奏するブジョンヌイ

ジェフリー・ロバーツ『スターリンの将軍 ジューコフ』によると、晩年のジューコフが受けたインタビューにはこのような質問があった。

 

Q.(インタビュアー) うらやましいと思う友人はいますか?

A. (ジューコフ)いるとも!いつも(元帥)ブジョンヌイをうらやんでいた。彼はアコーディオンの名人だった。

 

 

www.youtube.com

↑ブジョンヌイとザイツェフの二重奏です。これをBGMに流しながら読むと面白いかも…?


 ジューコフが言及した男はロシア内戦の英雄かつソ連軍の重鎮、セミョーン・ミハイロヴィチ・ブジョンヌイその人であった。

 軍人として猛々しいキャリアを積んだ反面、音楽を愛好し自ら演奏に興じるソ連の将軍たちの姿がこの質問をとおして浮かびあがる。本稿では、ブジョンヌイという人物がいかにアコーディオン演奏を楽しみ、どのような性格を持っていたかを探る。しばしば独ソ戦史では手厳しい批判を受けがちなブジョンヌイであるが、一音楽愛好者としてはどのような人物だったのか。それを紐解いていこう。

 

 その前に軽く、彼について紹介する。20歳で帝政ロシア軍に入り騎兵科に配属されたブジョンヌイはその後日露戦争第一次世界大戦で赫々たる武勲をあげ下士官に昇進する。ロシア革命が起きると、多くの将校が既得権益階級として排斥されたため、下士官の彼は共産党との関係性を深めトントン拍子に出世する。帝政ロシア軍の後継たる労農赤軍内では、騎兵運用の専門家として重宝された。また第1騎兵軍司令官時代には、後の赤軍の実力者ヴォロシーロフやスターリンを上司に頂き強力なコネを築き上げていたので、スターリン時代が到来すると彼の権威は増大するばかりであった。彼は騎兵総監として騎兵の育成に力を入れるだけでなく、1935年にはソ連邦最初の五元帥の栄を受け、大粛清の魔の手も逃れ充実したキャリアを享受する。

 

 しかし、独ソ戦が始まってからの彼の活躍は芳しくないと言わざるを得ない。よく指摘されるのは、騎兵という兵科自体が第二次世界大戦期には時代遅れなのに、彼の運用思想は更新されることがなかったという点だ。これが故、彼は失態を続けたと理由付けられる。ただ上述の内容はすでに時代遅れとの批判もあり、独ソ戦期におけるブジョンヌイの評価は大きく分かれている。

 結局のところは…正直、筆者には判断し兼ねるので読者に委ねる。それは本稿の趣旨ではないし……(逃げ)*1 ま、まあアコーディオン弾くおじさんの姿見て和んでいってよ!!

 

アコーディオンに興じる将軍

 

 ブジョンヌイの関係者は口を揃えて、彼は良い耳を持っていたと証言する。ロシア国防省の彼の項では娘のニーナが「父はなんでも演奏できた。ボタンアコーディオンだろうが、ドイツ式の複雑なアコーディオンだろうが(意訳)」と述べている。どうやら彼はこと楽器に関してはなかなか器用な才を見せたのだろう。

 さて、ブジョンヌイが演奏していたこのアコーディオン。ロシアでアコーディオンといえば、兵士が『カチューシャ』や『スラブ娘の別れ』などを演奏しているイメージがあるが、実際はどうだったのだろうか。以下の論文ではГармоньと呼ばれる当時のボタン式アコーディオンについて、このような説明がなされている。

 

ボタン式アコーディオン1830年代にドイツからロシアに入ってき、各地で手工業製の生産が行われ、地方色豊かである。本格的に民衆の間に普及し始めたのは,第2次世界大戦後のことである。人気はあったが高価な楽器であり、村に1台あった楽器を皆で使用するといったケースが多かった。N地区に1930~40年代はバラライカは1つの村に2~3台あったのに対して、ガルモーニはほぼ1台、あるいは数村に1台だったという統計が得られた。

ロシア語ロシア文学研究 (日本ロシア文学会、2007) 『1930~40年代コストロマ農村におけるバラライカの演奏の場』柚木かおり

 

 またこのサイト*2では、革命以前は労働者階級の楽器として軽視されていたアコーディオンが、革命すると一転してソ連を代表する楽器として生産に力が入れられたと記述されている。しかし先述の通り実際には数が充実していなかったのだろう。故にアコーディオンを演奏できることは一種の特殊技能であり、一つの職業として生活できるレベルだったのだろう。現に、農村のガルモーニ奏者は給料をもらってやってくるそうだ。昔で言う吟遊詩人のようである。

 ロシア内戦である程度地位を確立していたブジョンヌイにとって、アコーディオンを入手することは資金的にそれほど苦しくはなかっただろう。むしろ、彼がいつ演奏を始めたかが気になるところだが、これは正直分からない…… おそらく彼の回想録に記述があるのかもしれないが、現在の筆者の力ではそこまで及ばない。識者の助力を願うばかりである。

 さてさて。一つだけ言えることは、ブジョンヌイはロシア内戦時に大事な出会いをしたことである。それは彼の部隊に所属していた兵士のグリゴリー・ザイツェフ(Григорий Зайцев)である。ザイツェフは独学でアコーディオンの演奏を会得しており、金属加工職人の道を勧める両親の期待に反して、ロストフの蒸気機関車工場で働きながら演奏を続けた彼はいつしかロストフでも有名な演奏家になっていた。そしてロシア内戦で赤軍に徴兵され、ブジョンヌイと出会う。この出会いは、ブジョンヌイの音楽人生に大きな影響を与えた。内戦が終わった後も、2人は毎年のように顔を合わせていたという。ブジョンヌイは彼を非常に気に入っており、「彼が私をアコーディオン奏者にした」とまで言っている。

 ザイツェフとブジョンヌイはしばしばデュエット(二重奏)するほど馬が合っており、ブジョンヌイの数少ないアコーディオン演奏の録音は全てその際のものである。この録音は「バヤン・デュエット」という名前で音楽出版され、ソ連社会でも流通していたそうである。2人とも自身の作品を非常に好み、ザイツェフはこのレコードを流す際いつも周囲に沈黙を求めたそうだ。

 

まとめ

 厳しい顔つきでロシア内戦の赤軍を体現する風格を醸し出すブジョンヌイ。一方で、スターリンの側近として大粛清を逃れたり、大祖国戦争独ソ戦)期の辛い評価など毀誉褒貶の激しい人物である。そんなブジョンヌイではあるが、このように音楽を愛好するなど意外な側面がある。アコーディオンを通じて友情を育み、ジューコフに嫉妬され、レコードを出版する、そんな一面があったのだ。これ以降、あの髭面のおじさんを見るたびにそんな繊細な面があったんだなと思っていただければ筆者としてこれ以上ない喜び?である。 

 

lightaudio.ru

 ちなみにブジョンヌイとザイツェフのデュエットはここで聴けるのでぜひぜひ。ブジョンヌイ行進曲に代表されるような猛々しいソ連音楽ではなく、ロストフの風土感じさせるロシア民謡を演奏してるのが最高にエモいと思います!

(てかザイツェフの顔写真、なんで検索しても出てこないんだろう?)

 

 

参考文献・リンク

ジェフリー=ロバーツ 2013 『スターリンの将軍 ジューコフ』松島芳彦訳 白水社

『ソヴィエト赤軍興亡史2』学研

柚木かおり 2007「1930~40年代コストロマ農村におけるバラライカの演奏の場」『ロシア語ロシア文学研究 』p.85-91

К 130-летию со дня рождения Маршала Советского Союза С.М. Будённого : Министерство обороны Российской Федерации

Баянист Владимир Ушенин :: Издания. Народно-инструментальное ансамблевое исполнительство на Дону

https://clio-historia.livejournal.com/179223.html

*1:相互さんたちから頂いた情報を見てると、キエフ失陥は別にブジョの責任じゃないと思えるし、前線指揮官退いても畜産や監査官としてなかなか活躍してるっぽい。個人的には「無能」の評はいささか不公平な気がする

*2:http://www.ushenin.com/books/book3c01.php

OMORI感想 *ミリタリー要素なし *鍵付


Q. 作中にキーを集めて完成する文字列(アルファベットの大文字6字)を答えよ 

 

U2FsdGVkX18Xv7DQrAx7wf1f3X7lxde3rlbj0d0Z32qZY0gR2SFkll1A5kiu8ZKcXH/lGjCtp4sXvJJrOMdkodKqUbLmZykTT5jJhxC4oQjEtUMaoOgpRL3cq7Us44EOL6rn5vh89T0aT1edFZb7ydLM+VYn/uwqD07jWnL9dTgNsugJ/5fRaClTQiAjJsJvd5g+TZF+Z3JrZohDl27PcIzw2Gn++Q6NjniNy+XDEx2ShIsLC8BQMRQ5T5tvmtNAFtjcQ8l/OEBp3Sovg0o2wGWVGBb/zB6Oa6mr7fPyg+LFL+uTDjzjX0nvLSFWQOmkWZWai7IAkLbmZK/JhUPTiyg40F7deUmDGZcqki9IUsKnyf2PBidwFZmSLhf2zDixkJzqH2uY7akUxVKK7HTzU7xLYTD2Vz+CkW2uR/nbSqJVzm9jsgP9fI0gL26CTAT8MAbFxpSVnJgPp9v6mT0egG+o4OcSvSWpKc1e+DuKXtD2DB95M0INcOy639aTsnC0ZgZX+PSnq8qFt2By/igcLWypZ7eZAbRiMniTkIMkJqY3DJbHPLkGulcC/rAX7XMwywsRDSa7rxeC+ASnrfADy6USp4yQReA9H35TZv2QvT/WxrIi17mFLaKaaTTynFE2d/2FsLgd8o2wDWZ9ScGxwKlxsUUvcCks2O0COnbxKywLna3mprKZSximcYpVhpEtUQuhyLUdOVeSigyT0KvD9a+gEvQfV+DzwEkJNlftPnq8mIT7tIWd8NPJUQHQPT1aTwk4kcbGmQfDIkGdVZyZmTwXuFxsLxHdbrgcfb996t6idjOAVL1TldspAv220w0MtqgxMHJW+r9xIlvPTvhniH3IQkJUkiUKznob1Ux4hn/sF+rBKTyBWfdbtgkiy7wKtbS+u9YKfHVgBmezIJ/8cVPoDnUufF+GKwimCqnObXFtK140Ky3lzmvaOzWBaK2t/Bgrmv5vWRS/WNm725s+EnOWU8vtZ3JIlTzz51RDjRz/YB3zpg26GHPXo8xAEML7PWva5rR4ofC9rV5DbKIZm0ZejZpIjyx8vpwKtYzF9YdO/z/Oruz8Zr7Dc1nBiDh3MqPUtd812XyG/VYOkc3y9uS05iRhqDdycBB2QBfrYEcFgVn/u8tOgyTbBKPocwBSbEtsx8nhT8ZjptP1KA5TUC45t+pw3deOXGxCqpcH7EF7XdJ8LqD6CIKv/YTGiX1p+1/kifAhmonjKkrs7hLXbsGBIFNMjBz+1BRs382D0pUZPwHrXPTCTr5oeqoTMXr7fO7fFVtHYtolayCYME3ODRC8A+BaoLxlZSgWAa3rqI5cU9nsb0pcJaA1p95JWo++KILR0Nq0piqtX5fEKSWFXKHZ+4AivvmaqPiFRTSTvID/TF5gEkSiuoAwEck9c5zLcwoplZhLTIs8LLEGJJh+rzHJ0BTGzqqeYda+XNj7V0OnE9nQvDWNnQRqxMTbBoirgoAGdN06Zf2StIxmhPQ/yKeiReI91u5aeAyttGOODO8b0Siu3wIS3kZ2mT6HCWF4CHRw7ZFHtD5j6jR8VoBOylyvRHAb3Nc9G1UU9dPO2r/r9RxDDm0WLWTOnNZvRMGZxf2XRzilpONktNwYcwuSO1Xwrz3fEzS4cIYQ90N+0VvaaEpaPBoTcgnLCgjIrNEOIo5kInjHYryD0NNoJ1zR13kh44V+35yfFwa1jEfX3IdjhAJLAuYqnff8+7atMojW3Zxv9CUIVenkh9/qshgIqNKU/PFBxeixDu1Mv9UuYD27RUNIdcRrxvliNxsxJx38i5HEbMkGEEZMMfzmbaTO/fAZgOKCasH9QIBaOtKIxKdNVbJ7YKUesP6Cgy2a2cyyJpteZTMTXvLsuGaVJdTsOKtI+JC40C8DvzRz2lauYU189MV72pPrsgSszr9EbH5UczlSVKulZRlYepy53MdenUHSwBftcdA/4lwDNFNFdrCnZcXYnYU1+lwLHep/MsXQEZ0uFV4LY9gA20eYZ7znQGSSjKaK8tM+LJcTGmPHwL/XIFzyo3lYPrY/PwZxKSeocgXFNb5jyy4F1TuHeMQLDy+i53AYDT6KpsgDcHNPqFy2Gx1FSsiV9CmMihQqspTodnKl1kH14w+FN/ZcrYiL1n4MhVHBSX6pEDqz7pRWXc0bnfnQ3OTMmKagOB3+zrTyC8VpQVDOscOLW8c498fqQidHmmaAFYEXhobgOdNYRdsK+FisdYbQsGjJlD+oyXV9cZU5YlzDMPZzah6uU6G0cAMp/XaMjxHp3ZxCD+wk3/LpnFk6+IWcp6WBwk3QX8KIqEfX9GVepztJzSJwJnv91wD/lUEgPsbEiDQF4RCA/LDNVcNbw5EyGnzjfPkS/cqdSsV1mlSRUhlWGGG32z/01bFfkBZ2ksMVP4RJ2wUgwdlxT84OmRhASktG+vNv8PSJKiDpYwnjW2zXY3FGFPRqxRhy2KZXN8HBFYCZUEdcKej4FL66eI8m1eag3OUqHP1VFoqnJujZl9FudBOlQCITpM+pwIRicQG+JE7jgtiM4CGgweChkBxdTOVRkr1cUkj1zOXmspcNiVAdQn6xgU+WRXqHemFLP8BcWZKAWyQl9rlrE4t+OIT46dgvj0rJL//YDJyHK4pRMVRLz9x2UH2mAzk32GCtuYeXx7kbf4xaHWyheq8Zi4OUahxS7k4EQTNBfcbsaKKBW5huwhWoiRK0r4Z8/4m1yay0Bwij9TSj2H8AEHZau3NmQe2e3u4f79SiIYuy0358ehSrPX4xBcaXIfvjkxQF4GnH1zci0bgIEQbXJqBAIDWQ6Ftr/gRMxbUhADD+4t5CmlagNtSXIBKe0UYITRc1ep37+Cr/3StN3XQfnQqpZx32segxwvrTZ8e3v3hA/cQOzutSaZLdawvZBsAWndvgvIwsdOb8KPuCyxJQwSfMJdkKtRelVq9XDZr+npmQ6g7NLp68frqfZo79FTnW0MuqTvXvFlmPN4MV2SDnF+6KiyReUL7+rh3IVrWHQQ3ElYm1GzZ1uEnfL8dvk2tNcrlJC6ThvSSZYxvzkhaKIBALEFB3SA7nH2jV+zFK0p0T9DkURtLJNIRXYI7WiEkb41Eoi1qWyY7t8btHVblp8el1fZUnxJkHbPQMLsDfi2V5Ao8xHT7GucK2V0q+qMz9t4Y50X9QLN5+GjBgbpuZl4PhGQ4jLeJ5WyArvXzq

 

こちらのサイトを参考にさせていただきました!

ahixare.hatenablog.com

fukurami.hatenablog.com

 

労農赤軍の新聞

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新聞を出す軍隊?

 ソ連において新聞とは何か特別な力を持った手段のように考えられています。革命家たちは地下で新聞を発行して大衆を「宣伝」・「煽動」し、自分たちの目的を明らかにしてきました。革命後も、ソ連の指導者たちは新聞を通じて社会主義社会の実現を唱え国民の理解を得ようとしてきました。一方で、ソ連社会では共産党だけでなく労働組合や行政組織である人民委員部、学術機関や軍隊に至るまで立場を異にする多くの組織が独自に機関紙を発行してきました。しかし、資本主義社会の新聞とは違い、ソ連では個々の機関紙が労働者や兵士などその読み手の意見を代表する形で政治に異議を唱えたり各組織の意見の相違が反映されるのは稀でした。何故ならソ連社会において新聞とは、共産党組織のイデオロギーを増幅させ肯定するのが主目的だったためです。

 さて今回はその背景を踏まえながら、労農赤軍内部の新聞事情について限定的ですが、紹介させていただきたいと思います。軍隊が新聞を発行するのは確かに珍しくはありません。例えばアメリカ軍の機関紙「星条旗」は軍人の読み物として広く普及していますし、戦場では「陣中新聞」と言って兵士のレクリエーションを目的に新聞を発行したケースが日本軍でもあります。陣中新聞は『大砲とスタンプ』でも取り上げられてましたよね。それよりも読者層は小規模にはなりますが、艦内新聞が日本海軍の艦船内でもありましたし、現在の自衛隊にも部隊新聞があったりします。また軍政が敷かれた地域や捕虜収容所で軍隊が新聞を発行する例もあります。軍隊が人間という文化的な知的生命体の集まりである限り、常に娯楽や情報を欲する感情が存在し、それゆえに軍隊と新聞とは切り離せないのでしょう。

 しかし赤軍においては、自国軍隊でも小さな規模つまり連隊や中隊レベルにまで新聞が存在していたのにも関わらず、それが「星条旗」新聞とも違って共産党政権に追随するものであり、共産党イデオロギーを軍隊の最先端にまで行き届ける役割を果たそうとした点に特異さがあります。対峙するドイツ軍でも、宣伝部隊と言ってプロパガンダ作成を主任務とする独立した組織があり、ドイツとソ連の妙な酷似を感じさせますが、それでも赤軍では各部隊に新聞発行者が配置されていたという点でやはり独特です。新聞出版とは、赤軍に設置された多数のクラブや劇場・映画館と並んで兵士の社会主義教育を施すための一手段でした。 

 

注意点

 

 さて最初に述べさせていただきますが、これから紹介する数値や基準はあくまでも昭和8年(1933)に出版された『赤軍戦時の政治作業』に基づく内容です。この本では新聞業務の詳細に触れているのですが、具体的にいつの時代を言及しているのかは不明です。そのためこれが内戦時の基準だったのかそれともその後の時代の基準だったのかは分かりませんが、あくまでも1920~1930年代のガイドラインであるのを踏まえていただきたいです。

 さらにもう一つ重要な点があります。このガイドラインは後の冬戦争や独ソ戦大祖国戦争)時のとは合致しない可能性があります。何故なら上述の本が出された時の赤軍における新聞発行部数は各小隊に1部〜2部が配布される程度であり、多くは政治教育をする際の教材として用いられていました。しかし、一端戦争が始まると兵士を大量に育成するため政治教育はカットされ、訓練キャンプにて復活するのは1944年に入ってからでした。つまり政治教育を行うための教材としての新聞の側面は、戦時中は機能不全に陥っていたと考えられます。また共産党の機関紙である『プラウダ』を兵士が個人で読む姿も多く撮影されており、こうした部隊レベルの枠組みを超えて、広く全軍に普及していた新聞もあります。

 このようにこれ以降の内容は、ある程度眉に唾をつけて読んでいただければ幸いです

 

 

発行状況

 

 軍管区~師団

 このレベルの特徴は、部隊に「政治部」と呼ばれる組織がある点です。基本的な政治将校の役割は、政治教育や部隊管理等ですが、複数の事務員を擁する政治部が置かれた師団以上になるとプロパガンダ作成などより高次的な政治活動が可能になります。自然、新聞発行回数も下級司令部より上がり文量も増えます。なお、上述した通り発行数はあくまでも各小隊に1~2部あたる程度なので、師団新聞も自部隊内では250~300部ぐらいしか発行されていません。これらの新聞を用いて各部隊のポリトルーク(政治指導員)が読み聞かせや談話を通じて内容を説明します。この時期においては政治将校が政治教育する時のデイリー教材みたいなイメージが正しいのかもしれません。

 基本的に原本はタイプライターで入力されています。そしてゲラ版・石版・コンニャク版など発行量に応じて部隊に配備される印刷機も変わっています。これから紹介する新聞は見開き一枚分、一枚の紙を二つ折りにして四面に分けられているものが多いのでそのようなのを想像していただきたいです。

 

 軍管区(方面軍)*1の新聞は日刊ですが、主な内容は標語の普及や国際国内事件の解説などです。日刊であるがゆえに大量出版は可能ですが、出版機材の移動が困難だったため、戦況が激化した時は軍団新聞がメインになったそうです。

 軍団新聞は四面の活字新聞で、発行は隔日でしたが、出版が安定しており軍隊新聞の基盤となっていました。また材料が多い時は、紙面を二面に減らす代わりに毎日発行することもできます。ちなみに軍管区新聞よりも移動が楽であるとのことでしたが、事実、軍団新聞には2両の1.5トントラック(GAZ-AA?)または馬車が置かれており、戦線の移動に対する対応力がありました。ちなみに赤軍の編成には軍管区(方面軍)ー軍団ー軍ー師団と分かれているのですが、今参照している資料には軍の記述がありませんね…… しかも軍団は戦時中解体された時期があるので、その間新聞組織がどのような役割を果たしていたのか不明です。なお筆者の知る限り、戦時中に軍レベルで新聞は発行されています。

 師団新聞は基本的に他の新聞の補助的な役割を担っています。独自の掲載内容は、兵卒の補給情報です。こちらもガリ版または石版四面で、発行頻度は基本週2回以下ですが、軍団新聞がなんらかの事情で休載している時には隔日です。

 連隊・中隊

 これらの新聞はより細分化された部隊における新聞事情です。注意しておきたいのが、戦況が激化するとこのレベルでは発行を担当する政治将校も他の業務に悩殺される場合が想定されるのでやはり軍団新聞が基本とのことです。またこれらの新聞は部隊内の共産党局の機関紙という扱いになるので、共産党の編成がない中隊等では発行されないようです。『赤軍讀本』には、共産党の連隊ビューロー(その主任は書記)、そして共産青年同盟の連隊ビューロー(同盟の連隊オルガナイザー1名を有す) として政治機構が存在するとしています。その二つのどちらかが編成された部隊のことを指すのでしょう。

 また内容も「陣中生活及びに戦場生活」の特集が多く、軍団新聞の主方針に依りつつも比較的日常に根差した通知や情報が掲載されているのも特徴です。

 連隊新聞はコンニャク版または石版四面です。発行頻度は「普通一ー二回とす」とされていますが、一週間のうちに、ということでしょうか?

 中隊新聞になるともはや出版されません。必要な場合に限り、手書きの壁新聞を作成して兵営の目につくところに張り出したり、「レーニンの肖像を掲げたる室」(中隊政治指導員の事務室兼図書室だったレーニン室を指しているのでしょうか)の壁に貼られた白紙に必要事項を付箋紙で貼っていく「イリチヨフカ」型、やスクラップブックを作ったりと色々な方式がありました。壁新聞は一般兵士の目に届きますが、それ以外は概してレーニン室に出入りする政治将校たちが連絡事項を共有するための役割が強かったのでしょう。

 

内容

 次は内容にも触れてみましょうか。これに関しては各新聞につき色々あるのですが……とりあえず主軸となる軍団新聞政治軍隊日常生活に分けて見てましょうか。ちなみにこの分類は筆者の独断と偏見によるものなので悪しからず。

政治

 一番最初にあるのは論説欄です。赤軍兵卒が果たすべき任務を具体的かつ簡潔に説明し、標語などもここに掲載されています。一番大事な部分と言っても過言ではないので、編纂部自身が執筆するかまたは方面軍・軍団参謀長や政治部長の文章が採用されます。一般政治欄ソ連国内外のニュースがイデオロギー的に解釈された上で説明されています。敵国欄では、敵対する国家・軍隊の諸問題が誇張され階級・民族問題を大きくあげつらい、軍隊の長短を論じています。これらの欄に共通していることは、やはりイデオロギー的な解釈を通じて情報などが歪曲されたり誇張して伝えられている部分が多く、赤軍の機関紙たる意義を大いに発揮している箇所とも言えます。

軍隊

 この欄では軍事機密に注意しながらも、赤軍自体を特集している部分です。作戦広報欄では、戦況の推移を掲載しますが、もちろん司令部が許可した内容のみで、劣勢時には内容が精査されます。軍事宣伝欄は戦術・戦法における改革や、訓練の変化など戦闘技術に関する情報が多く掲載されています。当然、許可された内容だけですが。赤軍雑報欄は銃後や他部隊に関する情報などが掲載されます。

 

日常生活

 軍団生活欄は軍隊における生活を特集しています。住民関係や補給・衛生の情報も掲載されています。軍事通信員欄には軍団より下位クラスの新聞編纂者に対する注意事項などが書かれています。また兵士から新聞編纂部に投書を行うことも出来ます。これは読者たる兵卒と編纂部との連絡方法として重宝され、投書を定期的に掲載したり相談に答える投書及び相談部があります。もちろん投書は厳正なるチェックを受けた上で、部隊の内情把握にも使われたりします。最後に風刺諧謔があります。ユーモアは部隊指揮官の尊厳を傷つけない限りにおいて推奨されていましたし、敵に対してはその限りがありません。また絵の上手い人間を登用して、定期的に風刺画を掲載していたこともありました。

 

最後に

  さてこれまで労農赤軍内部の新聞について説明してきましたが、これは一面に過ぎないことを留意していただきたいです。今回取り上げた新聞の数々はロシア語で発行されていましたが、多民族を擁した労農赤軍では現地の民族文化に適応した新聞が発行されていました。

 そして再三主張してきましたが、新聞が小隊につき1~2部という割り当ても、大祖国戦争で適応されたのかさえ疑問です。前述した通り、師団新聞が各兵士に配られる写真や、プラウダを読む兵士の写真が残されているのにその基準が当てはまるのかは不明です。

 この奇妙さを説明するカギは識字率にあるのかもしれません。ロシア帝政末期・ソ連時代には識字率を向上させるための努力が継続的に行われてきました。結果ソ連全体の9〜43歳の識字率は1926年に56.6%、戦争直前の1939年には87.4%と大きく向上します。*2 つまり赤軍内でも、この期間を通じて継続的に識字率が向上し政治指導員のレクチャーなしに新聞を読める兵士が増えているのです赤軍の新聞事情とは、こうした社会の変容を反映していたのかもしれません。

 

参考文献・リンク

赤軍戰時の政治作業』偕行社

赤軍読本』陸軍画報社

日蘇通信社編『蘇聯邦年鑑. 1940年版』日蘇通信社

高橋利雄 述『ソウエート聯邦の国民軍事化』教化団体聯合会

早瀬晋三『日本占領・勢力下の東南アジアで発行された新聞』アジア太平洋討究No.27

ソ連言語政策史再考

 

 最後になりますが、独ソ戦中に発行された部隊新聞については、下記のリンクを開くと実感できると思います。ただ、リンク先が保護されていないので開く際は自己責任でよろしくお願いします。

↓ムルマンスクのパルチザン組織の新聞について、一応こちらだけリンクは保護されています。

murmansk.bezformata.com

 ↓レニングラード方面軍及び配下の軍の新聞について。風刺画も多く掲載されています。

sertolovo-online.ru

赤軍によるヴイボルグ攻勢中のレニングラード方面軍新聞『祖国の守り手』の記事が掲載されています。

ristikivi.spb.ru

*1:平時は軍管区ですが、戦時には方面軍になります

*2:ソ連言語政策史再考より引用

ソ連の政治将校④

 

 1941年、突如ドイツはソ連に宣戦布告し侵攻を開始します。一方「バルバロッサ」と呼ばれた空前絶後の大作戦の裏で、悪名高い一つの指令が発令されていました。その名は「コミッサール指令」、ここには相手の赤軍に所属している政治将校の取り扱いが規定されていました。

 これによると、政治将校が「野蛮でアジア的な戦闘方法」の根源であり、捕虜になったドイツ人は彼らによって「憎悪に満ちた残酷で非人道的な扱い」を受けるとされていました。軍事指揮官と政治将校とは明確に区別され、作戦地域で抵抗または抵抗を試みた政治将校は「処分」、軍後方地域でも疑わしい行動をとった政治将校は出動部隊に引き渡すことが命じられました。

 前回でも述べましたが、1940年代の政治将校は軍事教育を受けた職業軍人とほとんど同じです。書類上でも歩兵将校と同じ分類に含まれていましたし、職務内容も連隊の規律維持、兵士の管理、指揮官の補佐など雑務で占め、政治教育を施していると言ってもそれは他国の従軍牧師が果たした役割に近い部分もありました。わざわざ処遇を入れ替えるほど苛烈な措置を取る必要があったのか筆者には分かりません。

 当然ですがこれは立派な国際法違反だったので、指令が配布されたのは軍・航空軍司令官まで、それ以下の指揮官には口頭で伝えられました。そのため現在、コミッサール指令は、ナチス・ドイツが犯した戦争犯罪の一つとして数えられています。これは「絶滅戦争」とされた独ソ戦の一要素を構成しており、戦争の歪さを示すエピソードでもあったのでしょう。悲劇的なことに、この命令は多くの部隊で執行され、戦後マンシュタインの様な将官もその責任を問われています。しかしコミッサール指令についての情報が、赤軍内部で膾炙するにつれて、各部隊のコミサールやポリトルークはますます頑強に戦うことを主張する様になり、ドイツ軍に煮湯を呑ませました。そのため、1年後にコミッサール指令は撤回されます。

 ただドイツ軍は政治将校のことを「野蛮・アジア的」と評して抹殺しようとした反面、赤軍のコミサール制度の効果は認めていたと考えられます。その証拠に、1943年には「国家社会主義指導将校」と呼ばれる役職がドイツ軍に誕生します。これは国防軍内部から選出された将校が、部隊指揮官の任務の傍ら部下にイデオロギー教育・政治教育を施すというものでした。ソ連軍と違った点は、信頼された軍事指揮官が政治教育を行っていたということであり、事実上コミサール制度を採用しています。ドイツ軍も、部隊内で政治教育を行うことの有用性を認識していたのでしょう。皮肉なことに、ソ連の方ではすでに1942年から政治将校の専業化が確立されており、副署権も失っていたため、ドイツ軍が採用したコミサール制度とは違ったものになっていましたが……

 こうして見てみると、ドイツ軍は赤軍内部の政治将校システムを有害なものをして取り除こうとしたものの、結果的にその有用性を認識して自軍に取り入れるという奇妙な構図が成り立っていたことがわかります。しかし、その認識の犠牲となったのは膨大な数のソ連政治将校でした。

 

 最後になりますが、筆者はドイツ語が読めないため、国家社会主義指導将校(Nationalsozialistischer Führungsoffizier)について断片的な情報しか得ることが出来ませんでした。もしドイツ軍事情に詳しい方がいらっしゃれば、教えていただけると嬉しいです。

 

参考文献・参考リンク

大木毅『独ソ戦岩波新書

Steven J. Zaloga "US Indantryman vs German Infantryman: European Theater of Operations 1944"

Zusammenfassung Richtlinien für die Behandlung politischer Kommissare [Kommissarbefehl], 6. Juni 1941 / Bayerische Staatsbibliothek (BSB, München)

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コミッサール指令

 

ソ連の政治将校③

 主に大祖国戦争前夜のソヴィエト政治将校の歩みです。開戦前夜の赤軍はどのように政軍関係を取ったのでしょうか?

 

 

粛清の後遺症

 

 さて前回取り上げた赤軍大粛清にて軍内部は大きな動乱を経験します。脱走者が続出し、軍としての規律が崩壊し始めた中、政治将校たちが必死の努力で赤軍をつなぎとめます。しかし政治将校の上層部も粛清の煽りを受けて処分された者が多く、中堅クラスが空席を埋めて行きました。結果、末端では政治将校の不足が顕在化します。そこで、急遽コムソモールや共産党員から小隊レベルの政治将校を集めて、なんとか数を揃えます。独ソ戦期のソ連軍が慢性的な指揮官不足に陥っていたことは周知の事実ですが、より下位の部隊に行けば行くほど事態は深刻でした。1937年末、ポリトルーク*1には10341人、コミサール*2には938人の欠員がありました。*3

 次に赤軍粛清後に政治将校が部隊内でどのような役割を担っていたのかについて説明します。1937年8月15日に発行されたソ連中央執行委委員会(当時のソ連の最高統治決定機関です)及びソ連人民委員会(ソ連の行政機関)令第105/1387号には、コミサールの役割について改めて規定されています。*4 兵士の教育・規律の維持(反乱分子の摘発)・兵員の管理・政治活動など基本条項はこれまでと変わらないと思われます。また政治将校が自ら軍事知識を増やしていくことも義務付けされており、軍事のしろうとにならないよう対策がされています。注意すべきなのが、副署権が復活していることで、部隊の指揮官が署名しうるあらゆる命令書に政治将校の署名が付け加えられていないと、命令が効力を発さなくなっていることです。この文書は5日後の8月20日に承認されます。この時期、政治将校の力は増していたのです。

 

冬戦争の辛苦

 

 さて時は1930年代後半、二度目の世界大戦を前にして世界各地では小規模な紛争が頻発していました。1938~1939年にはすでに極東で、張鼓峰事件・ノモンハン事件を戦い、同年にはスペイン内戦で近代戦を経験しました。これらの戦争において、政治将校に言及した資料をまだ集められていないので、この分野は割愛させていただきます。

 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻、ついに第二次世界大戦が始まります。この時、西部から攻め込んだ赤軍は最初こそ順調だったものの、時間の経過と共に自軍が弱体化していることを認識します。幸いなことにポーランドがすぐ降伏したおかげで、それは対外的に表面化することはありませんでしたが、いつかは分かる問題でした。

 そしてそれは同年12月に、ソ連フィンランドに攻め入った時、すなわち冬戦争にてあらわになります。ご存知の通り、この戦争でソ連フィンランド相手に各地で苦戦、赤軍は醜態をさらけ出します。冬戦争は1940年3月に終わりましたが、その後赤軍内部では冬戦争の問題を洗い出すために委員会が組織されます。そこで大きな役割を占めたのが、冬戦争後期で活躍したチモシェンコで、彼を中心に様々な改革が打ち出されます。その中の一つが政治将校から副署権を奪い取ることでした。

 それを規定したのが8月のソ連国防人民委員会令第262号で、この項を見るにあたって注目すべき点は複数あります。*5 まず、これまでヴォロシーロフの名で発行されてきた人民委員会令が、彼の解任によって、後任のチモシェンコの名で発行されています。ヴォロシーロフはフルンゼ亡き後、赤軍の機械化を支えてきましたが、トハチェフスキーと対立し、しばしば軍事的合理性を軽視した節があったため、戦時には適さなくなっていたのです。次に、全ての政治将校が一度解任され、副官のポストに任命されました。彼らは指揮官と並び立つ存在に降格されたのです。(面白いことに給与は前と変わらない旨が記載されています)最後に粛清後の、コミサール制度を復活させたソ連国防人民委員会第085号や、副署権を認めた第165号などの条項が取り消されています。この条項で政治将校は副署権を剥奪され、指揮官の補佐として職務を制限されたのです。裏を返せば、軍事指揮官の権力は強化されました。

 焦燥感に駆られたソ連は、必死の努力を通じて赤軍の改革を進めます。それは、来るべきドイツとの戦争に備えるためでした。

 次回はいよいよ大祖国戦争本番に入りたい……ところですが、その前に戦前の政治将校というシステムが諸外国からはどのように映っていたのかについてご紹介します。それらを考えていく上で、戦時中のドイツが出した「コミッサール指令」という最大級の戦争犯罪について知りましょう。

 

余談ー政治将校の軍事教育

 前回、政治将校がいつ軍事教育を受け始めたのかについてお話しましたが、TwitterにてSimonov-117さんから「レーニン名称軍政治大学」の設立以降ではないかというご指摘をいただきました。そこで様々な情報をいただき、私も調べてみたところ、確かに政治将校はこの大学で軍事教育を受けていたということがわかりました。ちなみにこの大学がレーニンの名を冠するのは1938年以降で、それ以前は「トルマチェフ名称軍政治大学」だったそうです。*6 この大学では、政治教育と軍事教育の両立が図られており、後には通信部や自動車機械化などの新兵器の学部も追加され、普通の士官学校と同じレベルの軍事教育を教わることができました。なお1929-31の間に、すでに出世した赤色指揮官たちもこの大学で政治教育と上級指揮官コースを学んでいます。その中にはチモシェンコやエリョーメンコの顔がありました。この大学は、ソ連崩壊後は「ソ連軍人道アカデミー」と名前を変え、現在では「ロシア連邦国防省軍事大学」として残っているそうです。

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政治将校は敵より悪い!ー彼は君の背後を撃つ!

 フィンランドプロパガンダ

*1:この名称が付くのは中隊付政治委員以下の階級で、軍隊では大尉・上級中尉・中尉相当です

*2:一般的に大隊付政治委員以上、軍隊では少佐相当

*3:http://rkka.ru/analys/kadri/main.htm

*4:Постановление ЦИК и СНК СССР от 15.08.1937 № 105/1387 — Викитека

*5:Приказ НКО СССР от 14.08.1940 № 262 — Викитека

*6:トルマーチェフは内戦期に最初の軍事コミサールとして活躍した人物です。

ソ連の政治将校②

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「コミッサール」オデッサ美術館所蔵


 今回はロシア内戦後から赤軍大粛清までの政治将校の軌跡を追っていきます!

 

 

トロツキー失脚

 

 1922年11月、ロシア内戦が終結し、ソヴィエト権力の存続が決まります。その背景にあったのは、トロツキーが必死の努力で立て直した赤軍の力に他なりませんでした。

 しかし「英雄」トロツキーの栄光も長くは持ちませんでした。後継者の座を狙うスターリンジノヴィエフカーメネフと結託してトロツキーの追い落としを行ったことで、トロツキーの権力は徐々に弱まっていきます。また赤軍の戦後についても、すでにトロツキーは迷走し始めていました。

 問題は、これまで一貫して正規軍としての赤軍を唱え続けた彼が、急に赤軍の「民兵化」、つまりパルチザンへの回帰を提言したことです。それまで「軍事専門家」の登用、正規軍の編成に反対してきた人々にとっては青天の霹靂だったでしょう。

 むろん、トロツキーの行動が非論理的だったわけではありません。彼曰く、軍事専門家の受け入れも全て資本主義勢力を倒すための苦肉の策であり、本来軍隊は市民社会そのものと結束していなければならないのです(超訳)。そのため、コミッサールたちも軍隊を管理するだけでなく労働人民委員として社会の役割を担わなければいけない。軍隊が人々から離れて永続的に職業軍化してはならず、市民社会と軍事は抱き合わせの関係にならなくてはいけない。

 彼自身、赤軍の「正規軍化」を絶対化したことはなく、あくまでも処方箋であり、戦争が終わった後は新たに社会主義としての軍隊を創造していく必要があると考えていました。当然、これに対してトゥハチェフスキーやスヴェーチンなどの赤色指揮官、そして軍事専門家たちは猛反対します。民兵軍に広大なソヴィエトの大地は守りえません。赤軍にとって、もはやトロツキー自身が悩みの種となっていたのです。

 

フルンゼ改革

 

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 1923年秋、反トロツキー・キャンペーンによって党内でのトロツキーの立場は急落していました。それでも彼は1925年4月まで革命軍事評議会(最高軍事会議から改称)議長を勤め上げていますが、実権さえも副議長のミハイル・フルンゼに渡されていました。ロシア内戦が終わった今、赤軍は新たな改革の風に迫られており、その矢先に立っていたのがフルンゼでした。むろん、その背後には権力闘争を勝ち抜いて、後継者として頭角をあらわし始めるスターリンの存在があります。

 実はフルンゼはもともとパルチザン主義者で、トロツキー赤軍中央統制に反対した過去を持っていました。*1またロシア革命前からの革命家で、「軍事専門家」ではありませんでした。しかしトロツキー後、彼は周りに応じて赤軍の改革を進めていきます。

 フルンゼの特筆すべき改革の一つとして、指揮権の統一があります。1925年3月25日、ソ連革命軍事評議会は第234号令を発します。この文書によると、コミサールとポリトルークは廃止されることになりました。もちろん、その代わりとして新たなポストが加えられ、赤軍の政治将校はこちらに移動します。

 さて、新しい政治将校には副署権がなく、活動が政治部門のみに限定されていました。もともと二元指揮制は、絶えず軍事専門家とコミサールの間で軋轢を生んでいたことから、現場では不評でした。また全赤軍指揮官における共産党員(いわゆる「赤色指揮官」)の比率も高まっており、将校に対するコミサールの統制はさほど必要とされなくなってきました。最後に、これは別問題にはなるのですが、赤軍のコミサールの多くがトロツキーを支持していた経験がありました。皮肉なことに後継者のスターリンにとっては、かつて自らが追放を唱えた軍事専門家よりも、コミサールの方が信用に値しない存在となっていたのです。

 政治将校は副署権こそ失うも、本来の職務である政治教育に専念していました。そこで1日2時間の政治教育を兵士に施し、識字率の向上にも寄与していました。さらに指揮官の勤務態度を党に報告して昇進にも影響を及ぼすなど、副署権なしでも無視できない存在でした。スターリン体制下の赤軍において、政治将校の存在意義は独裁者の支配を強めることにありました。彼らが守るものはもはや「革命」ではなく、「スターリン」という一人の男の権威となりつつあったのです。

 

大テロルの恐怖

 

 興味深いことに、国内線が終わると赤軍で働く「軍事専門家」と呼ばれていた旧帝政将校たちの数が減少していきます。

 1930~1931年の「春事件」は顕著な例です。この事件で、参謀本部に勤務する帝政将校たち約700名が反革命陰謀と破壊工作の疑いで逮捕されました。

また逮捕されずとも、旧帝政将校の冷遇が図られ(昇進において赤色指揮官を優先するなど)たために、離職する者も多かったのです。最盛期には五万人近くの数を誇った彼らも、1930年次には4500名まで減り、将校全体比も76から10%にまで落ちました。

 これらの対策は、後継者となったスターリンが新たなる社会主義政策を進めるための地盤固めとして行ったと言われています。1937年に再発する赤軍大粛清の前哨戦と考えることもできるでしょう。

 1935年、赤軍は尉官・佐官レベルにおいて階級制度を復活させました。この時、ポムポリトにもそれらの階級に呼応するものが制定されました。例えば上級中尉に相当するのは「政治指導員(ポリトルーク)」、大佐は「連隊政治委員(ポルカヴォイ・コミサール)」という風になりました。興味深いことに、階級名では旧称が復活しているということです。これは後の旧称復活を示唆するものでした。

 さて、この時期の赤軍は大いに近代化を進めます。ドクトリン・装備・編成などあらゆる分野で急成長を遂げ、1936年の赤軍野外教令は、その成功の現れとまでに喧伝されました。しかし1937年、スターリンが粛々と進めていた国内弾圧の波が赤軍内でものたうちまわります。世に言う赤軍大粛清の始まりです。この事件によって革命期から赤軍を支えていたトハチェフスキーやイェゴロフなどの赤色将校たちの多くが処刑または解任され、赤軍は将軍クラスの人材を数多失います。また粛清の凶刃が向けられたのは政治将校たちも同様で、その多くが赤色将校たちと同じ運命を辿りました。

 この大粛清は、スターリン赤軍を完全に掌握したという事実をもたらしました。これによって独ソ戦初期にソ連が奇襲を受けて赤軍が崩壊しかけても、スターリン赤軍に対する絶対的な統制を保つことができました。もちろん、それは一つの結果であり、粛清がもたらした犠牲もおびただしかったのですが……

 少し話が脱線しましたね。大粛清の嵐が吹き荒れた赤軍内では規律が弛緩したため、急遽コミサールとポリトルークが復活します。それはトハチェフスキーらが公開裁判で告訴され処刑されてから二週間も経たない1937年6月27日、ソ連国防人民委員会第85号にてコミサール制度は復活します。

 

 余談ですが、筆者のちょっとした考察を付け加えておきます。(本音を言うとここだけは少し不明瞭です)大粛清にて赤軍上層部のポストは軒並み空きました。軍事指揮官の場合、その空席を埋めたのはスペイン内戦帰りの比較的若い将校たちです。恐らく政治将校たちの場合も、昇進にあたって何か特別な条件を兼ね備えた将校たちが取って代わったのでしょうが、その違いは何だったのでしょうか? 筆者は軍事教育の差だと考えています。ロシア内戦にてコミサールが現場の悩みの種になった理由は、そのほとんどが軍事を知らない革命家であり、戦場の実情に合わない意見を述べてしばしば混乱を引き起こしたからです。しかし、ロシア内戦中・後から赤軍に入った政治将校は軍事学校で軍事教育を受けていたと考えられます。生憎、政治将校たちがいつから軍事教育を受けるようになったのかのデータをまだ見つける事は出来ていませんが、1940年の編成表ではポリトルークの職種番号は歩兵将校と同じになるそうです。軍事に精通した政治将校の存在は、戦場でもプラスの役目をもたらすと考えられたのでしょう。実際、独ソ戦期でも代わりに指揮を執った政治将校が一定の成果を残したと言う例が続出しています。この一面からも政治将校という制度の奇妙さが分かると思われます。

 

 最後にこの記事を執筆するにあたってПироговさんから多くの助言・資料をいただきました。この場を借りて深く御礼申し上げます。なお本稿内でのミスは筆者の理解不足に起因するものであり、その責任は全て筆者に負われます。

 

<<訂正>> 2020/10/18 フルンゼの経歴について

 

参考文献

 川島弘三『社会主義の軍隊』講談社現代新書

 湯浅赳男『革命の軍隊 赤軍史への一視点』三一新書

歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ バルバロッサ作戦』学研プラス

 露木好史/佐々木智也『T-34戦車とその時代』佐々木書店 

リンク

http://rkka.ru/uniform/terms/zvania.htm

https://forums.armchairgeneral.com/forum/world-history-group-hosting/rkka-the-russian-army-in-world-war-ii/8217-commissar-ranks

http://army.armor.kiev.ua/

*1:当初、フルンゼがトロツキー民兵論に賛同していたと記述していましたが、筆者の間違いです。フルンゼがパルチザンに賛同していたのは内戦期までのようです

ソ連の政治将校


 社会主義の軍隊には政治将校なる存在がいます。創作物や歴史書で語られるイメージの多くは、戦場の現実を理解せずに理想論ばかり唱えて指揮官を困惑させ、最前線では兵士を鼓舞して死地へと向かわせる、思想に取り憑かれた崇拝者としての役割が強いのでしょう。

 さて本稿では、ソ連の政治将校を取り上げて、彼らが国にとって軍隊にとってどのような存在だったのかを説明していきましょう。政治将校がいるということはどのようなデメリットがあり、メリットがあったのか。そしてこの解説を通して当時のソ連軍について理解を深めていただければ幸いです。

 

 

政治将校という単語

 歴史的背景に至る前に、まずは混沌とした政治将校という単語について整理しておきます。ここでいう「政治将校」とは、軍隊の中にあって共産党の意向を反映するために送られた人間のことを指します。その呼称も一様ではなく、「コミッサール(政治委員)」と呼ばれたり、「ポリトルーク(政治部指導員)」「ザムポリト(政治担当補佐官)」など変化に富んでいます。*1 これは主に役割の変化を反映していると言えます。平時における活動のほとんどが、兵士への政治教育や宣伝活動など政治活動が占めています。一方、戦時においては部隊の指揮権を持っていたりいなかったりと時代によってまちまちです。特にソ連前半期において、政治将校に部隊の指揮権を握らせるのかは大きな論争を呼びました。それゆえ名称もその時の役割において変化しているのです。 

 平時における活動を見ていると、政治将校の役割はアメリカ軍の「従軍牧師」に近いものがあります。宗教を否定した社会主義国で、代わりに「思想」を精神的支柱の拠り所として教育を行い兵士のカウンセリングにもあたる彼らの姿はどこか宗教人を彷彿とさせる……と言えば言い過ぎでしょうか?

 あらかた政治将校の説明をしたところで、いよいよ歴史に入っていきましょう。

 

はじまりはケレンスキー

 

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臨時政府首相 ケレンスキー

1917年、ペトログラードの冬。

 ロシア帝国第一次世界大戦の真っ只中にありましたが、最前線では敗北が続き、国内では食糧配給が滞り厭戦気分が広がっていました。首都では民衆のストライキが頻発するようになり、戦争どころではなくなります。事態が急転するのは、ストライキの鎮圧を命じられていた兵士たちが逆に自分たちの上官に銃口を向け、明確な反逆の意志を示したことです。軍隊という後ろ盾を失った皇帝は、そのままドゥーマ(議会)に権力を譲り渡して、退位しました。これが二月革命の始まりです。

 ドゥーマの構成員はそのまま臨時政府を組織します。ケレンスキー首相は、配下に置いた軍隊を管理するためにコミサールを各地域に派遣しました。県・郡・市ごとに送られたコミサールは、臨時政府の地方支配を担保します。革命直後の軍隊では、兵士たちの反乱によって将校が処刑され、「兵士委員会」なるものが選出されて指揮権を将校から奪っていました。将校に対する敬礼も勤務外では廃されます。これらの措置は、当時まだ政権を握っていなかったソヴィエト委員会が発行した「命令第1号」なる文書に基づくものであり、ソヴィエトはこれによって兵士たちの信頼を獲得します。コミサールの役割は、何より革命を左右する「軍隊」を臨時政府の手中に留めておくことでした。

 

ソヴィエトの下で

 

 しかし軍隊内部からはコルニーロフのように反逆する者も現れ、兵士たちもソヴィエト委員会に取り込まれていくなどコミサールは上手く機能しませんでした。それに並行して臨時政府も様々な改革を打ち立てたものの、民衆が本当に望んでいた「戦争からの離脱」を果たすことができず、十月革命にて政権をボリシェヴィキに奪われてしまいます。

 ソヴィエト政府はまず軍隊を引き継ぐにあたって、武装した労働者の集まりである「赤衛隊」にコミサール制を導入して、旧軍を吸収させます。そして彼らは労働組合・工場党委員会・赤衛軍の代表を集めて「革命軍事委員会」を結成しました。この委員会は、60名以上の熱心な革命家をコミサールとして部隊に派遣することを決定。またコミッサールには、部隊の指揮官が出す全ての進撃命令に副署権、つまり党の許可を与える権利が与えられました。この副署権は前線におけるコミッサールの権力の源となり、コミッサールを指揮官と並び立つ存在へと仕立て上げたものです。とはいえ、この時点で党が彼らに期待するものは小さく、あくまでも部隊指揮官に対する牽制としての対策でした。 

 状況が一変するのは、この赤軍(1918年1月に「労農赤軍」に改変)が実戦に出てからです。1918年、ソヴィエト政府はドイツとの講和を模索し続けていました。しかし相手方から提示された条件が苛烈過ぎたために、党内部からは戦争継続の声が大きく、外務人民委員レフ・トロツキーは折衷案として「戦争もせず、講和もせず」と煮え切らない態度を取ります。これに業を煮やしたドイツ軍は、二月に東部戦線全域で大攻勢を開始します。赤軍は各地で敗走し、一時は首都ペトログラードにまで接近したドイツ軍のために、ソヴィエト政府はモスクワに遷都せざるを得なくなります。追い詰められたソヴィエト政府は、さらに吊り上げられた条件を前に講和条約を結ばされ第一次世界大戦から離脱しました。

 

トロツキーの改革

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赤軍の父」トロツキー


 

 かくしてソヴィエト政府は自らが保有する軍隊は貧弱であること、そして外部からの圧力に対して新しい国家があまりに脆いことを痛感しました。目下の課題は強い軍隊の創設でした。講和条約締結のすぐ後に「最高軍事会議」が置かれ、その初代議長にトロツキーが就任、3月には陸海軍人民委員に任命されました。赤軍創設の役回りはトロツキーに回ってきたのです。すでに同月、ロシアの戦線復帰とソヴィエト政府打倒を目論むイギリス・フランス軍がムルマンスクに上陸し、翌月には極東の利権を狙う日本軍がシベリアに出兵していました。

 革命後にソヴィエト政府で蔓延した「ブルジョワ性」を否定するあまり、軍隊にまで社会主義的を求めようとする風潮をまずトロツキーは批判し、西欧的な軍隊の建設を訴えます。まず彼は赤軍に徴兵制を導入し、広く兵士を集めます。多くの革命家が期待した「自発的な労働戦士」としての志願兵の数は、正規軍を編成するにあたって絶対的な数が足りなかったためです。

 そこで適齢期の男性を調査して徴兵し、訓練する作業にはコミサールがあたりました。トロツキーは全国的に軍事委員会を設置し、赤軍宣伝志願兵の受付・兵士の教育などの雑務をコミサールたちに任せました。*2 加えて、政治教育を施し士気と識字率の向上に努めた下級の政治将校たちのことをポリトルークと呼び、コミッサールの執行を下から支えていました。また群・地方単位に置かれた委員会は全て彼の陸海軍人民委員部の統括のもとに置かれました。

 これは当時、地方分権化を勝手に進めていた地方勢力やその軍隊に対する牽制でもありました。正規軍の道のりには、中央の指導に忠実な軍隊を作り上げていく必要があります。そのため5月には全ロシア参謀本部が創設され、赤軍の中枢へとなっていきました。 コミサールはバラバラな赤軍を一つに繋ぎ止める役割をも有していたのです。

 さて、膨張していく赤軍には規律・技術を与える必要があります。それを行うためには将校たちの存在が不可欠でしたが、共産党の側にいるのは兵士や下士官ばかりで、将校などいるわけがありません。これに対策するために陸軍大学を作って即席の将校を育成し、下士官たちを将校クラスに格上げするなど様々な努力がなされましたが、必要数にはとうてい及びません。そこでトロツキーは旧ロシア帝国軍の将校に向き合いました。

 旧体制下において彼らは特権階級であり、その多くは社会主義思想に共鳴しませんでした。しかしトロツキーは彼らを「軍事専門家」として雇い入れ、1920年までに五万人ちかい旧将校たちが赤軍で活躍することになります。もちろんこの決定は党内でも大きな批判を呼び起こし、反対者の中にはスターリンの顔もありました。しかしトロツキーは「軍事を知らない無能な指揮官によってもたらされる損害の方が、軍事専門家たちの裏切りよりもひどい」と力説し、反対意見をねじ伏せてしまいます。

 「軍事専門家」たちはソヴィエト政権に協力する代わりに、革命以前の優遇された生活が保障されました。一方で反逆行為の責任は本人だけでなく、その家族にまで及びます。そして部隊の中で彼らの反革命行為を監視したのが、コミサールです。彼らはソヴィエト政府の代理として不可侵の権利を有しており、軍事専門家の白軍・干渉軍への寝返りに対して睨みをきかせていました。ただ、コミサールの権利が不可侵であったのと同様に、戦闘における軍事専門家の決断も不可侵でした。トロツキー反革命を取り締まること以外に、コミサールの軍事への介入を厳禁しました。また内戦が始まると、失敗の責任はコミサールから取らされるようになります。彼の容赦のなさはコミサールであろうが、処刑を辞さなかったことにも現れているでしょう。監視者としてのイメージとは裏腹に、軍事専門家とコミッサールの両者は一蓮托生の運命にあり、それゆえ協力しあわなければならなかったのです。

 むろん、お題目だけ唱えても実戦におけるコミッサールと軍事専門家の対立は激しいものでした。特に有名なのが、1918年、ツァリーツィン(現ヴォルゴグラード独ソ戦時の名はスターリングラード)の事件です。

 この事件の概要はこうです。トロツキーの進める赤軍の中央集権化に反対していた現地軍司令官クリメント・ヴォロシーロフは、中央から派遣されてきた軍事専門家の命令を拒絶します。その背後にはスターリンの影響があり、事実上スターリントロツキーの対立でした。結局、トロツキーはヴォロシーロフの行為を軍規違反であるとし、軍法会議への出廷をちらつかせて彼を黙らせます。これにはスターリントロツキーの方針を受け入れざるをえなくなりました。レーニンまで介入せざるをえなかったこの事件は、軍事専門家に対する共産党員の不信を如実に示しており、これらをまとめあげるトロツキーの采配なしにはコミサール制は成り立たなかったのかもしれません。

 

<<追記>> 2020/10/17

参考文献 

 池田喜郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波文庫

 川島弘三『社会主義の軍隊』講談社現代新書

 湯浅赳男『革命の軍隊 赤軍史への一視点』三一新書

 レフ・トロツキー『革命はいかに武装されたか : 赤軍建設の記録Ⅰ < 第二期トロツキー選集 10 >』現代思潮社

 『歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ バルバロッサ作戦』学研プラス

*1:特にこのコミサールという単語が曲者で、辞書を調べると①(軍)政治委員 ②軍事委員, 徴兵司令官 ③政治将校 などという訳語が出てきます。その他にもソ連時代の大臣にあたる言葉もコミサールで通っていたりと、当時よく用いられた役職名であることが伺えます。なお本稿では政治委員も軍事委員も全て、軍隊における共産党の「手先」という意味で政治将校として呼称します。

*2:特に内戦時に徴兵の役割をになったコミサールのことを、ヴォエンコム(戦時委員)と呼びました

スターリン線の評価について

  スターリン線とは?

 第二次世界大戦前、旧ソ連の国境線沿いに敷設された防衛線のことであり、その建造にはマジノ線が参考にされた。ソ連ポーランド侵攻によって国境線が西に移動すると、スターリン線は用済みとなって放置される。だが独ソ開戦とともに国土深くまで撤退せざるをえなかったソ連軍は、これを再度防衛線として期待するも、放棄された後入念な手入れがされていなかったスターリン線は易々と突破された。

 

 スターリン線に関しては、ざっとこのような理解がされているのだろう。師としたマジノ線と同様、大戦に寄与することもなく時代に置いていかれた要塞群の悲しき歴史の一端を現しているとも言える。

 そしてスターリン線に関しては二つの見方が存在する。一方はこれが弱かったとする説、そしてもう一方は強かったとする説だ。

 前者には確かに説得力がある。なぜなら歴史の経過が何よりの証拠となっているからだ。独ソ開戦後、ソ連軍はずるずると後退していき、侵攻側のドイツ軍も防衛線など歯牙にもかけないスピードで敵を首都モスクワ目前まで追い詰めた。スターリン線には存在感などまったくないし、多くの歴史書ではスターリン線のすの字も出てこない。

 一方後者の説は比較的新しいが、それでも説得力はあるようにみえる。後者でしばしば用いられるロジックはこうだ。もしポーランド分割に伴う新国境策定時に放棄されていなければ、スターリン線はちゃんと機能したのではないか。誰に聞いても口を揃えて国家予算の無駄遣いと言い切られるマジノ線に比べ、どうやらスターリン線には温情溢れる見方もあるようだ。

 さてこれらの説はどちらも間違ってはいないように見えて、どちらもスターリン線自体に対する十分な理解が伴ってない。前者に関してはスターリン線の本来の用途という視点が欠落しているし、後者に関してはポーランド分割前の1939年時のスターリン線の実情に目を向けていない。

 そもそもこの防衛線が何を目的としていたのかさえよく知られていないのだ。スターリン線は果たして時代遅れの産物だったのか? そして新国境策定時に放棄されていなければちゃんと機能したのか? 今回はこれら二つの観点からこの要塞群を見てみよう。

 

 

 初めによくある誤解として、スターリン線が連続的な永久要塞であるということだ。恐らく、マジノ線を範としたという事実から飛躍したのだろうが、実際はキエフミンスクなどの重要な前衛都市を守るように造られていた要塞群の集合体に過ぎない。

 そもそもスターリン線とは西欧の呼び方に過ぎずソ連側ではどのような呼称をされていたのかよく分かっていない。ここでは便宜的にスターリン線という呼び方を使わさせてもらおう。

 

スターリン線、その運用思想

 スターリン戦が建造された背景を知るために、まずはロシア帝国ソ連が歩んだ通史から見ていこう。ロシア革命の要因となった第一次世界大戦では、熾烈な塹壕線が戦われた。しかしヴェルダン要塞のように要塞が一定の活躍を見せた西部戦線とちがって、ロシアが戦った東部戦線では要塞の果たした役割は小さいものだった。そのため、順当に進めばこのような要塞は廃止される運命にあったのだ。

 その後、ロシア革命が起こりボリシェヴィキ政権が立つと、西欧列強および日本・アメリカはロシア国内の反革命派を支援するために干渉軍を組織した。ここに対ソ干渉戦争が始まる。この戦争を辛くも勝ち抜いたソビエトだったが、それでも戦後新たにつくられたバルト三国ポーランドフィンランドの国々に加えてルーマニアに国境を接しており、それらの国々が英仏に支援されてソ連を潰しにくる脅威に晒され続けた。しかしそれに対応して巨大な常備軍を維持する余裕はソヴィエトにはなかった。そのため対ソ干渉戦争が終わった1921年には、赤軍は仕方なく順次動員を解除して人員削減を進める。

 ただ、全世界が社会主義国ソ連の台頭を快く思わない中で、いつ攻撃を受けるともわからない。そこで代替案として、敵の攻撃を防ぐための要塞を西部国境に建築する提案がゴーレキン少将から出された。さらにカルビューシェフ中将は、要塞線が動員完了までの時間を稼ぎ、反撃の要になることを示唆した。しかし悲しいことに、弱ったソ連経済ではそれを実現するのも1928年からになった。

 1928年の構築開始時に、建築プログラムの責任者に任命されたのはトハチェフスキーだ。ちょうど同時期、彼は赤軍の機械化を推進しており、新たなる機動戦理論を完成しつつあった。そのため要塞など時代の遺物であると考えていた彼にとってこの人事は不本意だったかもしれない。しかし着任後、彼は自らの戦術構想とこのスターリン線を照らし合わせて、この要塞が役に立つと考えなおした。

 彼の戦術構想については前回で記事におこしたので、こちらを参照してほしい。

赤軍大敗北の要因 ②先見の明 - カラスの地下図書館

 彼は要塞地帯が、敵軍による先制攻撃を受けとめて赤軍の反撃の拠点となると考えた。動員が遅れることが考えられたソ連にとって、開戦時の初期対応の弱さをスターリン線がカバーすることができるという結論に彼は至った。ただ、ここまではカルビューシェフの構想とそれほど差異はない。

  彼の構想で注目すべき点は、機動戦に対応した要塞を建築しようとしたことである。機械化部隊の戦線突破力が強い機動戦では、防衛線が突破されることは珍しいことではなく、正面の防衛線をいくら強化しても意味はない。むしろ要塞線の縦深、つまり前線と司令部の間の防衛地帯を広くとっておくことで、突破してきた敵部隊を自軍陣地で返り討ちにする効果が有効だ。これを「縦深防御」と呼ぶが、トハチェフスキーも同様の戦術を行うためにスターリン線の縦深を広くとったのである。なお1937年に彼が処刑された後も、スターリン線の運用思想自体は大きくは変わらなかった。

 さてここまでをまとめていくと、スターリン線とは第一次大戦時のような膠着した塹壕戦を再現するためのものではなく、開戦後に動員が遅れるソ連のディスアドバンテージを埋め合わせるためのものであった。これはトハチェフスキーによって現代戦にも適応させられ、反攻拠点としての役割も期待されていた。

 つまりスターリン線はあくまでも仮の戦場に過ぎない。これは後方に待機している反攻部隊があってこそ効果を発揮するものであって、ただ単に防衛戦を延々と繰り広げるための施設ではなかったとも言える。敗退を続ける開戦初期のソ連軍にとって、それを行うための大規模な反攻を行う余裕などなく、できても散発的な攻撃だった。これではスターリン線を活かすこともできなかった。

 

放棄前のスターリン線の実情

 さて今度は1939年に至るまでの状況を見ていこう。一説では、放棄された後のスターリン線の戦闘施設はことごとく爆破されたと言われている。もしこのような行為が行われなければ強靭な要塞群はドイツ軍の侵攻を食い止めることができただろうとされている。

 だが1939年以前のスターリン線は果たして強固な防衛線だったのか? 次はそれを探る。そのためにまずこの要塞の概観を説明しておこう。

 まずスターリン線の大部分を占めるのが機関銃1~2丁を装備した永久トーチカだ。主力となるのは1902年型76.2mm砲を装備した円蓋付き砲兵壕で、彼らが敵の戦車を撃破する。それに加えて、少数だが機関銃10~12挺と砲2~6門を装備した重層配置の永久トーチカ群も置かれた。また当時ではすでに旧式化していたMS-1T-24T-26戦車が配備されており、無防備な土地を援護トーチカとして守っていた。

 このように一見普通の要塞にみえる。しかしその実態はお粗末極まりないものだった。半分以上の掩体壕が機関銃しか装備しておらず、個々の位置も一元化した指揮系統のもとで統合されていなかった。要塞の偽装はまったくなされておらず、地雷原や障害物も設置されていなかった要塞群は烏合の衆に過ぎなかった。この要塞群はほとんど未完成だったのだ。

 しかも設計の稚拙さだけではない、火器を運用する兵士たちですら適切な手入れを施していなかったのだ。より深く知るために、1938~1939年に国防人民委員部と内務人民委員部(NKVD)が実施した監査報告書を用いながら、国境が移動する前のスターリン線の実情を見ていこう。

キエフ要塞地帯

 ソ連経済の中枢であるウクライナ首都キエフを守るこの要塞地帯は、戦略上重要な地点であった。だが1939年1月付けでウクライナ内務人民委員部の提出した報告書にはその実態がよく現れている。

キエフ要塞地帯は半径100km近い円弧を形成してキエフを取り囲んでおり、その左右両端はドニエプル川に接している。そこに257個ある防御施設のうち戦闘準備が整っているのは5個しかない。要塞の左右両端は無防備で敵が自由に出入りできる。

この防御施設257個のうち175個は地形上必要な射界を確保できていない。 

 『バルバロッサのプレリュード』より引用

 このように射撃視界を確保できていない施設ばかりあるのはキエフに限ったことではない、他のチラースポリ要塞地帯でもそのような報告がなされていた。

モギリョーフ・ヤンポーリスキー要塞地帯

 要塞地帯の射撃施設、半砲兵壕の設備改装が進められているため、施設内は混沌と無秩序が支配している。兵器は、付着した水分の拭き取りもされず、オイルの塗布もされず、ほこりと錆に覆われ、このような取り扱いの結果、使用不能となっている。多くの半砲兵壕内の電気架線は混乱し、電気照明をまったく保証できない。

 同書より引用

  このように火器の手入れがまったくされていないこともスターリン線ではしばしば慢性化していた。この後に続く報告書の記載からは、1923年から設置されていた砲が1927年にやっと完全分解・清掃作業が施されていたとある。あまりにも遅過ぎたせいで、砲の内部全体にはうっすらと錆の痕が残っていたようだ。

 

 これらはスターリン線の惨状の一端を示すものに過ぎない。他にも設計ミス・光学装置の欠如・作業要員の欠員・有名無実の警備と問題は山積みであった。つまり国境移動後に爆破されていなかったにしろ、このような稚拙な防衛線ではドイツ軍を迎え撃つことなど到底無理であったことがわかる。

 

最後に

 ここまでスターリン線の運用思想と国境移動前の実態を解説してきたが、いかがだっただろうか。少なくとも強い・弱いという二元論的な説明では、スターリン線に対する理解を深めることはできないということがわかっていただけたかと思う。スターリン線には合理的かつ先進的な構想が用いられていたにせよ、その実態は伴っていなかった。そして実戦では一部の要塞地帯をのぞいてまったく戦果を残すこともなくドイツ軍によって突破された。だがこのように調べることでより興味深い話が出てくるのがこのスターリン線でもある。今回の記事もミリタリーや歴史が好きな方々に楽しんでいただけたならば幸いである。

 

<追記> 2020/7/24

 

 参考文献

Neil Short『The Stalin and Molotov Lines: Soviet Western Defences 1928–41 (Fortress Book 77) 』Osprey Publishings

マクシム・コロミーエツ、ミハイル・マカーロフ『バルバロッサのプレリュード』大日本絵画

平井友義スターリン赤軍粛清ー統帥部全滅の謎を追う』東洋書店

ジョン・エリクソン、E・J・ホイヒトワンガー『ソ連軍の研究』原書房

赤軍大敗北の要因 ③早すぎた見切り

 

 前回まではソ連軍の強さを見てきました。さて今回からは機械化部隊の成長を見守り続けたスターリンと粛清後残った赤軍幹部らによって壊されていくソ連軍機械化部隊の姿を取り上げていきます。

 

 ソ連の機械化は急ピッチで進みますが、その歪みも時が経つに連れてあらわになります。まず速度を重視しすぎて、軽装甲になったBTシリーズは後の戦車の重装甲化と砲の大口径化に立ち遅れていきます。しかもなまじ1930年代にそれらの軽装甲戦車を生産し過ぎて部隊の機械化が充足してしまったせいで、次期戦車の開発と生産が遅れ技術更新も停滞します。

 そして機械化部隊自体も、戦車は充実しても通信機器の不足が慢性的で、戦車隊指揮官は旗信号で統率を取らなければならないという劣悪なインフラストラクチャーしか有していませんでした。そのため戦車の連携は期待できなくなり、全車両に無線機を搭載していたドイツ軍のような巧みな連携行動は不可能となります。そして大きくなりすぎて統率が困難と考えられた機械化軍団は1935年から解体が進みます。

 機械化軍団や縦深戦術などの構想自体は正しかったのですが、ソ連では急速に進んでしまったが故に、このような歪みが生まれてしまいました。そしてこれらの問題点は改善点として受け止めることが出来たはずなのですが、その後に続いたトハチェフスキーら改革の中心派の粛清により、新しい構想への疑念は一気に増大します。今や「人民の敵」となった彼らの新構想は否定されるべき対象となり、機械化構想は一気に下火となります。

 そしてその勢いに輪をかけたのがスペイン内戦に参加した義勇軍部隊からの報告書です。一般に第二次世界大戦史から見たスペイン内戦では、ドイツが派遣した義勇軍のうち、特に空軍部隊が第二次世界大戦につながるノウハウを得たと語られることが多いです。しかし戦車部隊に関しては両軍とも期待していたほどの成果を得られず、むしろ戦車構想に陰りを見せるような報告ばかりでした。

 ソ連側が派遣したBTシリーズ、T-26は前述の通り軽装甲が祟ってたやすく撃破されています。そしてスペイン語を話す現地歩兵との意思疎通に失敗したソ連戦車兵はしばしば孤立したため、そこも格好の的となりました。何しろスペインの地にはドイツ軍の急降下爆撃機スツーカが跳梁し、運が悪ければ水平射撃を撃ち込んでくる8.8cm高射砲、通称アハトアハトに遭遇する可能性があります。スペインの地はソ連戦車にとって苦しい場所でした。

 積み重なる撃破数を前に戦車旅団長パブロフは、戦車の脆弱性を挙げてこれらを敵陣地の突破に使うのは困難であると悲観的な報告をソ連本国に送ります。戦車に戦線突破の可能性が見出せないとすれば、縦深戦術や集中的な運用などは机上の空論と化してしまう。そしてそれを反対派が見逃すはずがありませんでした。

 1939年に開かれた特別委員会では、戦車師団及び戦車旅団はあくまでも歩兵支援に徹することが取り決められ、新たに創設される自動車化歩兵師団に戦線の突破役としての座を奪われてしまいます。

 それどころか同年9月にドイツのポーランド侵攻に介入したソ連軍は、急速な用意によって粗雑な兵站で出撃してしまったため、戦車の故障が頻発します。これによって大規模な機械化部隊は補給や車両整備の負担が大きすぎることが過剰なまでに意識され、その解体は加速します。結局1936年時に比べてソ連の機械化部隊は原始的な段階にまで落ち、かつて世界最高峰を誇った姿は立ち消えます。そんな状態で同年、ソ連軍はフィンランドに侵攻し冬戦争を始めます。そしてそこで小国相手に無様な苦戦に陥り、ソ連軍指導部は自軍の弱体化を痛感します。

 とりあえずは機動集団を再編成して攻勢を行い、終戦にねじ込んだものの、日増しに拡大するドイツの脅威に対してソ連が軍事的に無力であることを暴露してしまった戦いになりました。ソ連軍は急遽大改革を行い、立て直しを行います。そんな中で、ドイツが巧みに機械化部隊を使ってフランス相手に大勝したとの報告が入ります。スターリン以下のソ連軍指導部は、機械化理論の正当性とそれらを自らで潰してしまったことを知りますが、後悔先に立たず。その後、機械化軍団の大拡充が発表されますが、無論独ソ開戦までに間に合うこともなく、初戦でソ連軍部隊は有効な機動防御や反撃を行えずに無残に後退を続けることになります。

 

『欧州戦史シリーズーバルバロッサ作戦ー』

Univ Pr of Kansas『When Titans Clashed』David M. Glantz, Jonathan M. House

ジェフリー・ロバーツ『スターリンの将軍 ジューコフ白水社

マクシム・コロミーエツ、ミハイル・マカーロフ『バルバロッサのプレリュード』大日本絵画

赤軍大敗北の要因 ②先見の明

 前回はガタガタになった赤軍指導部の実情を見ました。今回は機械化方面を見ていきましょう。第一次世界大戦後に萌芽した戦車運用構想については色々な意見がありました。その中でも最も主流だったのが、戦車はあくまでも歩兵に従属して戦線を突破するもの、そして戦車を攻撃の主力として迅速な戦線突破に使うものの二種類です。戦後多くの西洋諸国は前者に可能性を見出しましたが、ソ連は後者に賭けました。ソ連の決断を強く裏付けたのは縦深戦術という新しい構想です。

 

作戦術と縦深戦術

 対ポーランド戦争でソ連軍(といってもまだソ連なんてなかったのですが)は敵の巧みな騎兵運用を前に敗退します。その経験を分析した当時の司令官トハチェフスキーは『複数の連続撃破作戦』を発表します。そこには、組織が巨大化し回復性に飛んだ現代軍は一つの決戦で屈服できないことが指摘されており、現代軍を倒すには、敵の戦線を突破した後に敵の後方深くへと進撃し、防御に入る間も与えずに次の攻撃を行うという段階的な攻勢を行うべきと結論づけられていました。

 ソ連軍指導部はここから二つの概念を生み出します。まず一つ目が作戦術、そして二つ目が縦深戦術です。

 前述したトハチェフスキーの構想を実施するには個々の会戦をまとめあげる考え方が必要でした。しかし元来軍事の考え方は、戦争全体を司る戦略と個々の会戦を司る戦術しかなかったため、新たに穴を埋める形で生まれたのが作戦術という概念でした。

 そしてその作戦術をもって実施するのが縦深戦術です。現代に入ると軍隊は戦線の一部を突破されても迅速に予備部隊を抽出するか、退却して強固な防御線を新たに築くため、攻勢側が圧倒的に不利に陥りました。そのため列強同士の戦争は消耗戦に陥り、敵が疲弊するのを待つしか勝敗はつかないとされました。トハチェフスキーの論文はこの常識に一石を投じるものでもありました。

 彼の縦深戦術の重要な部分は、連続的な攻勢を与え続けることで敵に防御陣地を構築させず、最終的に破壊的な打撃を与えることでした。それを実現するためには新兵器の航空機と戦車に大いに働いてもらう必要があると考えたのです。

 砲兵と工兵に支援された戦車が先頭となって敵の戦線を突破し、他の航空機と長距離野戦砲が敵の後方深くに打撃を与え、敵後方に空挺部隊が展開すると同時に戦車部隊が後方に向け前進を続ける。ここでは戦車は三種類に分けて運用されています。まず歩兵が戦線を突破する支援、短距離的に進撃し突破口を広げる、そして敵部隊を追撃して包囲する。

 さて実はこれらの理論はソ連軍内部独自の構想だった訳ではありません、少なくとも戦車の可能性を信じる者は世界数多といました。1920年代にはフォルクハイムやハイグルなどの理論家が戦車や自動車の運用理論に対して多くの論文を提出していましたが、重要視されていませんでした。

 一方、ソ連では比較的早期に受け入れられました。スターリンは最初こそ、国家の生産計画にまで目ざとく口を挟もうとするトゥハチェフスキーらを警戒して構想を取り下げていましたが、満州事変の勃発による国際的緊張を受けて軍備の増強及び軍の近代化の重要性を認知して、多大な援助をしたため実施がスムーズに進みました。しかしスターリンは軍人の台頭には常に警戒心を抱き続けました。それは恐らく後の大粛清という、近代化の推進とは矛盾した行動の理由にもなったのかもしれません。

 

戦車編成

 戦車運用理論が煮詰まってきたところで、今度は肝心の戦車です。この構想を実現するために必要な戦車のスペックはなんといっても速度です。戦線を突破した後は迅速に敵の内部深くまで浸透し、追撃そして包囲を目指すのですから、速度がなければお話になりません。

 ソ連の前身であるロシア帝国は戦時に十分な戦車を開発していませんでした。その上、ソ連が軍事技術を学ぼうとしたドイツも戦車設計技術は未熟であり、独ソ蜜月時に学べたものは寡占でした。それゆえソ連は外国から戦車技術を輸入するため奔走し、JW・クリスティーというアメリカ人発明家に白羽の矢が立ちました。彼の設計する戦車はソ連と同じく速度を追求しており、彼が紹介した戦車「M1928」は時速67.5kmの高速度で整地を走破できました。この戦車は後のBTシリーズ、T-34の雛形として大きな役割を担っていきます。

 さて戦車の打撃力を十分に活かすには戦車を一か所に集中することが欠かせません。当時多くの国々では戦車を各師団や連隊毎に分配して使うことが常識でしたが、それでは戦線を満遍なく防衛することはできてもソ連のような大規模な突破は行いえません。そのため新たに戦車を一つの部隊に集中した編成が生まれます。クリスティー式戦車の採用に先立つ1927年には60両の外国戦車を組み込んだソ連最初の戦車連隊が編成され、1930年には機械化旅団が編成されました。ソ連は着実に諸兵科連合部隊の規模を大きくしていき、遂に縦深戦術の中心となりうる機械化軍団が1932年に新設されます。ドイツの装甲師団新設より3年も先駆けており、いかにソ連が戦車を集中した装甲部隊の重要性を認識していたかを如実に現しています。

 

〈追記〉2020/6/26 スターリンの構想理解について

参考文献

Univ Pr of Kansas『When Titans clashed』David M. Glantz, Jonathan M. House

『欧州戦史シリーズーバルバロッサ作戦ー』

芙蓉書房出版『機甲戦の歴史』葛原和三、川村康之

角川新書『戦車将軍グデーリアン』大木毅

中公新書スターリン ー「非道の独裁者」の実情』横手慎二

バルバロッサ作戦

マルクス・プラン、ロスベルク・プランはまとめあげられ、図上演習を繰り返された後「バルバロッサ」作戦が完成しました。最後にこの作戦について見ていきましょう。

 

 この作戦で、プリピャチ湿地帯の北には二つの軍集団が配備されました。

 ミンスク付近でソ連軍を包囲し、その後も装甲部隊を突進させモスクワを目指す中央軍集団。そしてそれを援護しつつ、北へ向かってバルト三国の占領を行い、南進してきたフィンランド軍と手を結ぶ北方軍集団

 そして南には、ウクライナの占領を目標とした南方軍集団が置かれました。

 これまで述べてきた通り、攻撃の主力はプリピャチ湿地の北、つまりモスクワに向けられています。しかし最後の頭上演習を終える頃になって、ヒトラーが横槍を入れます。

 ヒトラーはさほどモスクワを重要視しておらず、むしろロシア革命の震央であったレニングラードや、食糧供給地となりうるウクライナも優先目標に加えるべきと主張します。

 これに対して参謀総長のハルダー、陸軍総司令官のブラウヒッチュは、モスクワこそ重要と内心考えていました。しかしこの時、彼らは意見を対立させることなく、どの都市を最初に攻略すべきか決めるのは、スモレンスクソ連軍部隊を痛めつけてからでよいと決断を後回しにしたのです。ヒトラーもそれに同意し、対立は収集したかのように思えました。

 しかし決断を後回しにしたことで、バルバロッサ作戦はどこに攻撃の重心をおくべきなのかという、優先順位が曖昧になってしまいました。その上、ヒトラードイツ国防軍(特にハルダー)の意見相違はスモレンスクを攻略した後で表面化します。

 バルバロッサは史上かつてない規模の作戦でした。しかし、同時に多くの問題を孕んでいました。

 前述したような優先順位の不透明さ。そして短い期間で長距離を走破する将兵への過剰な負担を強いる上、それを支援するための兵站計画が十分でないこと。

 またウラル山脈以西のロシア地域(ヨーロッパ・ロシア)の占領が、大粛清で体制を強化したスターリンソ連崩壊に至るのか。

 そして極めつきは、本当に国境会戦でソ連軍の主力は撃滅できるのか

 これだけの問題を未解決にしたまま、独ソ戦に突入したドイツ国防軍は後にそのツケを払わされることになります。これらの問題はヒトラー個人に帰結するものではなく、軍事のプロフェッショナルとしての本領を発揮せずに、自軍を過信した国防軍の軍人にも同等の罪が被せられます。

 バルバロッサ作戦は壮大な攻勢計画であったと同時に、ずさん極まりないものだったのです。

 

ロスベルク・プラン

 マルクス・プランが立案されている最中、マルクスとは別の観点から対ソ侵攻計画を練るように指示されたのが、OKW(国防軍最高司令部)のベルンハルト・フォン・ロスベルク中佐です。彼が制作した報告書の正式名称は「東部作戦研究」、通称「ロスベルク・プラン」です。

 ロスベルクとマルクスの両者は、共に参謀本部から提供された情報を元に作戦を立案していたため、作戦の大半は似通っていましたが、部分的な違いもありました。まずその差異を取り上げて解説していきましょう。

 

 マルクス・プランにおいてプリピャチ湿地の北側にはモスクワを占領する主力と、レニングラードを目指す支援部隊がありましたが、あくまでも一つの軍集団に統括されていました。

 一方ロスベルク・プランでは、北のバルト海沿岸諸都市の攻略も重要視されたため、支援部隊は軍集団に格上げされました。つまりプリピャチ湿地の北には二個軍集団、南には一個軍集団の計三個軍集団独ソ戦初期を戦うことになったのです。

 当初、ドイツ軍は補給手段として鉄道に期待を寄せていましたが、ロシアとドイツの鉄道軌間や機関車の型が違うことなどから、鉄道輸送がすぐに効用を発するのは難しいと考えられました。そのため、陸路補給の不足はバルト海の海運で補うことが決められました。そのため、中央の軍集団ソ連軍の包囲殲滅に集中できるように、新たな指揮系統が必要となったのです。

 

 一方で、ロスベルク個人も対ソ戦を楽観視していました。彼はソ連の圧政は東欧諸国の反発を蓄積していると考え、各地で進撃するドイツ軍を人々は解放者として歓迎すると想定していました。特に、食糧供給地となることが予想されたウクライナでは、ドイツの傀儡政権を築くことができるだろうと考えていました。

 

 ここにもマルクスプランと同じ誤謬があります。国防軍将校たちは、自軍の絶対的優位を疑うことなく、ソ連軍はたやすく片付けられるだろうと信じていました。

 そして、対ソ侵攻作戦でもたらされる戦争の終結を真剣に考慮せず、数手先の未来しか予測していなかったのです。

 戦争の勝ち方、それについてはドイツ国防軍は全く近視眼的過ぎました。彼らのロジックでは、戦争とは個々の会戦で勝利を積み重ねた先に最終的な勝利を得られるものでした。そのため、ドイツ国防軍は局所戦ではめざましい戦果をあげながらも、独ソ戦ひいては第二次世界大戦終結する方法をついぞ見つけられませんでした。

 それに関しては、むしろソ連軍の方が一枚二枚上手でした。しかし、初戦の敗北が指し示すように、戦争初期ではその優位を活かすことが出来なかったのです。

 

 次はいよいよ、バルバロッサ作戦とその実行に入っていきましょう。

マルクス・プラン

 

 

  参謀総長ハルダーの命を受けたマルクス少将は、完成した作戦計画を提出します。まずはこの「マルクス・プラン」を見てみましょう。

 

 この計画上においてドイツ軍は、ドヴィナ川北部、ヴォルガ川中流域、ドン川下流域まで進出し、可能であれば北はアルハンゲリスク、南はロストフに到達することになっています。それまでの道のりで、食糧・原料供給地であるウクライナとドネェツ川流域、そして軍需生産の中心地モスクワレニングラード(現サンクトペテルブルク)を占領し、戦争を終結させることが期待されていました。

 そして一連の敵国土深くまでの侵攻を可能にするためには、ソ連軍の部隊ほとんどを国境近くで包囲殲滅する必要があるとマルクスは考えました。というのも早い段階でソ連軍を無力化しておかないと、ソ連軍が退却してロシアお得意の消耗戦に持ち込む恐れがあったからです。

 

 そこで次はドイツ軍がどこに攻撃の重心を置いていたかを話しましょう。

 ベラルーシウクライナの間、つまり独ソ国境近くの中心部にはプリピャチ湿地帯が広がっています。この湿地帯の上を車両が通行するのは困難であり、独ソ両軍にとって装甲部隊による突破が事実上不可能な地域でもありました。そのため、ドイツ軍はこの地域を境目に戦力を二分します。この地域の北側を進めばモスクワ、レニングラードに向かい、南側から進めばウクライナが手中に入ります。全ての計画上でドイツ軍は北側に主力を指し向けました。

 プリピャチ湿地帯の南側には機動戦にはうってつけの平野が広がっていましたが、道路交通網が未整備な地域が多かったのです。一方、北では森林が広がっているものの、ワルシャワからモスクワへと至る交通路が存在し、大部隊を送るなら北が良いと判断されました。

 またマルクスプラン、そして対ソ侵攻作戦立案において指導的立場にあったOKH参謀総長ハルダーの存在も無視できません。彼はモスクワの攻略こそ、ソ連の政治的・精神的・経済的な中枢を奪い、それに赤軍の崩壊が伴って、ソ連解体ひいてはドイツの勝利に至ると信じていました。彼の強い説得はマルクスを含め、多くのドイツ軍将官を納得させました。

 

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マルクス・プラン

 

 その発想に基づいた上で、北側に展開された部隊は目前のソ連軍を包囲殲滅し、ドヴィナ川とドニエプル川の間のオルシャ回廊を抜け、モスクワ占領後、南に旋回して南側の部隊と合流することになっていました。また戦線の北翼にはレニングラードを目指す支援部隊が展開されています。

 一方南側に展開された部隊は、枢軸軍に油田を提供するルーマニアソ連軍の反撃から守り、現ウクライナ首都キエフドニエプル川に進撃した後、南進してきた北側のドイツ軍主力と共同して工業都市のハリコフ、または北東へ進むことが規定されていました。

 

 

 

 しかしこの作戦には大きくいって2つの過ちがあります。

 一つは戦争がドイツ国防軍の果てしない自信に基づいた計画のずさんさ。もう一つは国境会戦だけでソ連軍が崩壊するだろうという甘い見通し

 まず、前者を見てみましょう。これらの作戦は最高でも僅か917週間で完遂されるとされました。すなわち第一段階(上の地図では赤色で表示されている矢印です)の3週間でソ連軍部隊を包囲殲滅して前線を400キロ押し上げ、第二段階(オレンジ色)で後方に残る敵の残存部隊を撃滅するのに3週間。第三段階(ピンク色の点線)で、300キロないし400キロ進んでモスクワ・レニングラードを攻略するのに3週間から6週間。そして第四段階(線と点で表されたピンク色の矢印)で残る要地を確保していくのに3週間から4週間。

 あたかもソ連軍が地図上に存在しないことが前提で立案されたようなずさんな計画というほかありません。その上、作戦を実行するにあたって必要な兵站が準備されていなかったという点でも、ドイツ軍の傲慢さを如実に現しています。

 そして後者ですが、ソ連軍が国境会戦で戦力を削がれるだろうという発想は、1940年のフランス戦役での経験に基づいていました。フランスでは装甲兵力を集中させたクライスト軍集団がアルデンヌの森と高地を抜け、連合軍を包囲してダンケルクまで押し上げました。この損害を埋め合わせることが不可能だったフランスはついに降伏を余儀なくされました。ドイツ軍の脳裏にはいつもこの大成功が浮かんでおり、対ソ戦争でも装甲部隊を集中させた包囲殲滅でソ連軍に破局的な打撃を与え、後は残った敵の掃討だけで済むだろう。フランス戦と同じ手が通用するだろうという甘い見通しがあったのです。

 しかし、いざドイツ軍が進行した後に気付かされる事実は簡単です。ソ連はフランスとは違っていたのです。これについてはバルバロッサ作戦が始まってから詳解することにしましょう。

 次回はロスベルク・プランとバルバロッサ作戦です。

 

※余談になりますが、マルクスは後に西方の第84軍団長に任命され、連合軍のノルマンディー上陸作戦を戦うことになります。そして上陸から僅か6日後、連合軍の航空機の攻撃によって戦死します。映画「史上最大の作戦」ではリヒャルト・ミンヒが演じており、ヘッダー画像もその時のものです。

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エーリッヒ・マルクス少将

 

一致したヒトラーと国防軍の意見

 かつて独ソ戦開戦の責任はヒトラーにのみあると言われてきました。しかし研究が進むにつれて、ドイツ国防軍自体もヒトラーの命が下る前から対ソ侵攻作戦について真剣に考えていた事が顕になり、いわゆる”国防軍潔白神話”のベールも剥がれつつあるようです。

 

 1939年、ポーランドは西からはドイツ軍、東からはソ連軍の侵攻を受け、押し潰されました。その結果、ドイツはソ連と国境を接することになり、ソ連に対する脅威が増したのです。しかもドイツ軍は西でフランス・イギリス相手に戦争を行なっていたので、例え独ソ不可侵条約を締結していたとしても、万が一ソ連が掌を返してドイツに侵攻してきた場合、自らが挟み撃ちになることを危惧しました。その警戒心はソ連フィンランド侵攻、ルーマニアへのベッサラビア割譲により、一層募っていきました。そして東に対する防御計画を考案していたドイツ国防軍はある一つの答えに行き着きます。ソ連に対して受け身の態度を取り続けたならば、ソ連による先制攻撃があった場合、回復困難な大損害を受ける。それならばこちらから打って出よう。

 こうしてドイツ陸軍最高司令部(OKH)の参謀総長フランツ・ハルダーは、フランス戦を終えて東に配備された第18軍司令部に対ソ侵攻計画を起草させていきます。その頃、ハルダーは総統ヒトラーが同じくソ連侵攻作戦を考えていることを知りました。

 ヒトラーソ連侵攻を考え始めたのは、彼の著書『我が闘争』にも明言されているように、ソ連領内でゲルマン民族による東方生存圏を築くためとも言われています。

 しかし、最初ヒトラーソ連侵攻を考えたのは、あくまでも対英戦における打開策を求めたからでした。ドイツ軍は1940年にフランスを降伏させましたが、本土で籠城するイギリスに対しては決定打を与えられずにいました。彼はイギリス攻略のために上陸作戦を実施しようとしましたが、艦艇の数で優位にあるイギリス海軍に対して、ドイツ海軍は通商破壊活動を実施するのがやっとの状況でした。故に、上陸艦艇を護衛してイギリス本土に至らせる任務は、ドイツ空軍に期待されました。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍もドーバー海峡の制空権を得られずに敗北し、対英上陸作戦は絵に描いた餅と化しました。

 そこで、ヒトラーは英国が籠城を続けるのは、ソ連アメリカの参戦の可能性に賭けているからだと考えました。その希望さえ奪ってしまえば、疲弊したイギリスは降伏するという淡い期待が独ソ戦の出発点となったのです。

 そしてドイツ国防軍ヒトラーの思惑は一致し、歴史の歯車は一気に対ソ戦へと向かっていったのです。ハルダーは第18軍参謀長エーリッヒ・マルクス少将に本格的な対ソ侵攻計画を立案するよう命じました。

独ソ戦ーはじめにー

はじめに

独ソ戦は1941年6月から1945年5月に渡るソヴィエト社会主義共和国連邦ナチス・ドイツとの戦争です。第二次世界大戦の範疇で行われたこの戦いは北はバルト海、南は黒海に及ぶ巨大な戦線がヨーロッパ大陸上に形成された空前絶後の大闘争となりました。

 民間人を含む死者の数も、ソ連側が2700万、ドイツ側も第二次世界大戦を通して600万から800万という夥しい結果となっています。先制攻撃を受けたソ連側ではスターリングラードに代表される諸都市が、最終的に敗北したドイツ側では帝都ベルリンが荒廃しました。

 前線では地獄さながらの光景が広がり、後方でもドイツ軍のアインザッツグルッペン(実行部隊)が占領地の住人(特にユダヤ人)相手にジェノサイドを繰り広げました。またソ連側でも政治将校やNKVD(内務人民委員部)が共産党の意向に沿うように前線部隊を見張り、時には恣意的な処刑も辞しませんでした。

 これほどまでに凄惨を極めた独ソ戦ですが、一方でドイツ軍の装甲部隊による見事な戦線突破と包囲、またソ連軍による作戦術の完成と実施という戦争技術の集大成が見られた戦史上重要な戦争でもあります。また、ルーデルが駆使した急降下爆撃機スツーカ伝説や、戦争後期のティーガーT-34による決闘などはかつての戦記ファンにロマンを感じさせたものです。

 さて、このブログでは主に作戦という観点から、地図上の展開を紹介していきたいと思っています。スターリングラードにおけるソ連軍総反抗が存外、古典的であったことや、末期になるにつれて弱体化するドイツ軍などの事柄をわかりやすく説明できたらなぁと考えています。そうすることで皆さんにこの巨大な戦争を、断片的ではなく、包括的に理解する手伝いが出来たら幸いです。

なお最初に人道的な観点から独ソ戦を論じたのは、この戦争が単に地図上だけで行われたものではなく、その時代を生きた何白万人もの人が紡いだものであることも私自身が留意しておくための、戒めとして記述させていただきました。

 次回からは、戦争前夜にドイツ軍側が立案していた対ソ侵攻作戦「マルクス・プラン」、「ロスベルク・プラン」そして運命の「バルバロッサ」作戦へと至る道筋を述べていきたいと思います。